陽を追うスコール、月を追うハティ。
神殺しの獣フェンリルの子狼たちは、審判の日にとうとう追い詰める。己の運命を、その鋭い顎にとらえ、燃える紅炎に喉を焦し、凍えた月影を飲み込んで。
世界は再び暗い暗い海の底、母の腹へと還ってゆく。
新しく生まれなおした世界を、新世界と言うのだそうだ。
これは全て神話の話。
世界は変わることはあっても、終わりはしない。この世は良きにしろ悪しきにしろ、続いていく。幸福な朝を迎える日もあれば、まんじりともせず夜のしじまを過ごし憂いに沈む日もある。逃げたくても生きる限りは明日が来るんだ。

『だから、楽しめよ』

あんたもな、と返すと「俺の楽しみはお前だ」と痛いほどに背中を叩かれた。
そう言って笑った男はもういない。
いい空賊になれ、いい船乗りになれ。
期待されるのは久しぶりで、素直に嬉しかった。何も考えずに額面どおり受け取った。過去に縛られ続けた心を、最期の一瞬まで二度と男の心には戻らなかった自由を、知らず。
託された。
嶮しい絶壁から突き抜けるほど青い空が広がっている。眼下の渦を巻き飛沫を飛ばす濃紺色の大海に、漣が陽光を反射して鱗模様にちかちかと閃いていた。
帝国の空中要塞バハムートがダルマスカへ進行するまで幾許か。俺達に出来ることはそう多く無い。
「腹減った」
こんな時にもまず口をついて出るのが生理現象だなんて、我ながらどうしようもない奴だと思う。でも、それでもどうにか今のこのご愁傷様な雰囲気に風穴を開けたかった俺は口に出した。
こういうこと言っても、「あーあ、この馬鹿は仕方ない奴だ」と罵られて許されるのは俺くらいなものだろう。つか、俺しかいえないだろう。言うしかないだろう。
場を弁えたら俺じゃ無い。
アーシェにまたこっぴどく叱られるんだろうなぁ…
「そうね、お腹が空いたわ。ご飯にしましょう」
…と思ったら思わぬところから擁護された。
仲間内で見かけに寄らず一番の健啖家の、フランだった。
アーシェの雷の落としどころが俺から彼女に移る。真っ赤なターゲットラインがゆんゆんだ。
避雷針になってくれてラッキーだけど、この二人が険悪になるともうパーティー全体の空気は目も当てられない。救いようの無い惨劇になりそうなんだが、これって幸いなのか。
それともなお更、悪い方向に転がっちゃったのか。
「ここに到って何を悠長な…」
「死にに行きたいの」
「何ですって?」
「よく見なさい、周りを。貴女自身を」
目的が定まったら突撃するのが猪の性で。
だから猪突猛進型のアーシェも、敵の本陣を前にしては居ても立ってもいられないわけで。
セーブクリスタルのお陰で満身創痍とはいかないまでも、心臓破りの大灯台最上階へ下から上まで延々と持久走大会を繰り広げ、ついさっき精神的に滅入る出来事を経た俺達は、草臥れまくっていた。
本当ならすぐさますっ飛んで行かなきゃ嘘だろう。
でも、正直、今戦ったら心が挫けそうだ。
「…今日はここで露営する」
船長が居なければ船は動かない。船が動かなければバハムートに突撃できない。
男の鶴の一声で収められて、まず動いたのはバッシュだった。少し傷ついたふうに男を一瞥したきり俯いたアーシェを促して、半歩後ろでその肩に手を触れようか迷っているパンネロに声をかける。
ずっと前衛で踏ん張ってきて、一番疲れているのは彼のはずなのに、嶮しい顔を緩めて「今日の当番は私達だったな」と言われ、俺は何とかぎこちない笑みを返した。
そうやってノロノロと、いつもどおり皆が天幕の準備を始める中、一人だけ逸れて向こうへ行ってしまう影が目の端に映る。
何か言おうかと思ったが、それにも疲れて言うのを止めた。




気味が悪いくらい大きな、白い満月が群雲ひとつ無い空にぽっかりと浮かんでいる。
男は月を背にこちらを向いて座っていた。岩に背中を預けて、胡坐をかいている。手元には、掃除の最中だったのだろう、分解されたフォーマルハウト。辺りにはほんの少し、銃身内に堅くこびりついた残渣を溶かす薬品と、ガンオイルの独特な匂いが漂っていた。
無臭の物も無いわけじゃないのに拘りがあるのか、男がいつも旅先で補充するのは匂いのあるものばかりだ。
月影の眩い夜、星もたくさん出ている。逆光でさえなければ、小さいランタンの灯りだけでもつぶさに、男の表情を見て取れそうだった。俺が傍に来たことを知っているくせに顔を上げようとはしない。隣にわざと乱暴に腰を下ろしても、一瞥もくれなかった。
たまらない苛立ちが込み上げて、鳩尾がじりじりと焼けた。
身勝手だけど、俺は「こんなときに折れて欲しくない」と思っていた。
あんただけはしゃんと立っていて欲しい。いつだって前を歩くんだから、俺にその背中を見せるなら、情けないざまなんて晒さないでくれ。
「がっかりした」
「そうか」
悪態も皮肉も返ってこない、本当に俺の言葉が届いているのか疑うくらい。影では頬骨の高さが際立って削げて見える横顔には、何も無かった。
「…あんたにじゃ無いよ」
寄りかかれば、煩わしい、と言いたげに肩を躱すのが常だと言うのに。こういう判りやすい凹み方をするなんて思わなかった。
そっと間近で盗み見た俺は、その見当が全く的外れだったと気がつく。
静かで、穏やかな。
憑き物が落ちたみたいなすっきりした顔だった。優しい眦の辺りに、ずっとあった影はどこにも見当たらなかった。
「何にがっかりしたんだ」
「え、あ、うん」
「おかしな奴だな。言い出した癖に詰まりやがって」
「だって、あんたが…」
口篭って膝を抱え込む。
俺が何も言い出さないのに、男はそれ以上突っ込んでこようとはしなかった。
銅のブラシで銃腔を数回往復し、綺麗に落とした汚れを拭き取ると、それだけで見違えるほど綺麗になった。見てみろ、と促されて銃身を受け取る。手入れをする前は煤塗れに汚れていた鉄の筒は、カンテラの灯りを鈍く照り返す。
そう言えば、こうして男が丹念に銃の手入れをするのをここのところ見ていなかった気がする。大灯台の門を潜る前ぶりだろうか。
慣れた所作であっというまに組み立てたそれを脇に立て掛けた男は、俯いた姿勢で作業して肩でも凝ったのか、うーん、と伸びをした。渺茫たる星の海を無心になって見上げる、茫洋としてあどけない眼差しと、対照的に老成した表情は不釣合いで。でも、今この時の男にはよく似合っていた。
「たった一発。それで終わり。…簡単なもんだな。踏み越えるなんてよ」
その、たった一発の銃弾で奪うことに、アンタはどれだけ覚悟を重ねてきたんだろう。
俺は急に吹き上げた海からの冷たい風に、思わず武者震いした。
「寒いか」
「全然」
「痩せ我慢も大概にしろ」
いつかのように俺を簀巻きにできる毛布は手元に無い。
…もう俺はこいつの傍から逃げ出したいとは思わなかった。
男は逡巡したふうだったが、溜息一つで片付けて俺の肩を抱き寄せた。こういうことは何度かあった。いずれも夜で、二人きりで、何も言われないから何も言わずに。
初めて男の胴に腕を回してみた。
まるで最初からわかっていたことのように、俺の肩を抱いていた腕は当たり前に背中を撫でた。脱力して寄りかかってもしっかり支えてくれる。
「俺は祈らないんだ。もうずっと、祈っていないんだ」
誰かが遠くに響く鐘の音を背中越しに振り返り、誰かが足元に手を合わせる。黄褐色の砂を眩くする斜陽、長い影を落とす墓標、砂埃に汚れるガルバナの花。
俺は、一度だけ世界は死んだのだと思ったことがある。
世界は終わりはしないのに、続いていくのに。
「兄さんが死んだ日に神様を殺しちまったから。
でも、何でだろうな、いつも、どっかで期待してたみたいだ」
絶対的な全知を超える存在が、神がいるというのなら。
この復讐と贖罪の連鎖を断ち切ってみせろ、今、生きて紕う俺達の道を照らせ、と。
「なんだよ、その顔」
「いや、お前が信心深い性質だとは思わなかったんでな」
「信心なんて欠片も持って無いって。祈らないって言ったろ?」
「験はかつぐが崇めはしない俺なんかよりは、お前の方がよほど篤信家だ。
…だから『がっかり』か」
男は喉の奥で低く笑った。
神様の正体を…正確には神と名乗る者の知った時、俺は確かに失望したんだ。
ギルヴェガンでバッシュに「どんな奴か楽しみだ」と言ったのは、好奇心の他にやっぱり期待があったからだ。
不滅なる者は思い浮かべるところの神様に相応する者だった。実際、自分達を神と騙っていた。
朝焼けと黄昏と夜空の星星をいっしょくたに混ぜて固めたような天陽の繭。天与の力だと、人は言う。与えたのは我々だ、と成りそこないの神は言う。
俺はわからなくなった。
どうして勝者も敗者もこんなに痛ましい。この虚しさはどうしたらいい。
神などいない、と身に沁みるほどわからされて初めて。俺は何かに祈りたいと思った。
「アーシェは繭を砕こうとした。
復讐も絶望も踏み越えた先で、自由を掴むために。ダルマスカの意志を守る為に」
代行者と名乗る者にたずなを取られ、家畜のように鼻面を牽きまわされて、生かされ、殺されるのは嫌だ。真実を知ってしまったら、そんな世界で生きるのは納得できない。我慢なら無い。でも、歴史を人の手に取り戻すため、世界を変えるため。そのために争い、淘汰されるのもまた人の命。
『変わるため』の代償に喪われた沢山の命。

こんな鎖は、断ち切ってやる。

聖石だの破魔石だの…、天与の意思に左右されて振り回されて自滅する。そんな愚かはもう十分だ。
大地に立ち、空を見上げていた人は、そのうち翼を手に入れ、空を翔るようになった。
神の手など借りなくとも、天威の力に縋らずとも、一歩一歩踏みしめる足さえあれば、手探りで前を模索する手すらあれば、人は歴史を刻んでいけるのだから。種族間で長さにこそ差はあれど終わりある生を生きる者たちは、悠久の時を生きる中で停滞し澱み"生"そのものに倦んでいたオキューリアよりも、ずっとずっと精彩に満ちた魂を持っていると思う。
俺は繭を砕く為に一緒に柄を握り締めて支え合ったアーシェの剣を、彼女と俺の魂を信じてる。
「自由を掴む、か。…結構だが、あまり放埓するなよ」
すぐ耳元で声がして、振り向くと鼻先が触れ合いそうなくらい近かった。
「終わったら話がある」
長くは待たせない。だから、俺の目の届くところに居ろ。
キスするのに面倒そうな鼻だなぁ、と思っていたけどそうでもなかった。結んだ舌の熱さより、痛いほど握り締められた指が心地いい。
膝を抱えてちぢこまって、ぎゅっと小さくなっていた身体から力が抜ける。
「信じるよ」
だから、カッコつけて死んだりするなよ。
男は「お前の『信じる』は重いな」と笑ったが、瞳の奥は厳粛だった。
この約束が嘘になってしまっても、俺はきっと、きっと、信じたことを後悔しない。














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2011.05.01(再掲)


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