その銃声はどんな剣戟よりも重く、長く、咆哮した。



ドラクロア研究所。今は別の名称で呼ばれ、複数の研究機関が雑居する。その昔の不吉な影は薄れ、影は影でもそこにあるのは誰もが知る秘密だけ。
掲げられていた二つの紋章は、二匹の蛇が絡まり合うソリドール家の家紋と、自らの尾を噛んで輪を描く竜の家紋。
それを日和の下で笑いながら見仰ぐ時が来るなんて。当時の自分が知ったら、プリンの刺身を噛まずに飲んだみたいな顔をするんじゃないだろうか。
政庁区の片隅に建つ二階建て、バルコニーから黒いフレームの眼鏡をかけた男が照れ臭そうな仏頂面をして「ああ、これもか。まだ残ってたのか。処分してくれてりゃ良かったものを」ぶつぶつと誰に宛ててか『対外的に』大きい独り言を呟き、無造作にポイポイと本を放り投げる。
「おーい、まだあんのかー。要る本だけにしてくれよ?」
言う間にも次々と降ってくる。慌てて受け止める腕の中はもう本の山だ。
こんなに大量なら複座式のバイクではなく、軽貨物輸送用のバギーでもターミナルで借りて来れば良かった。
いくら男が長身痩躯と言えど尻を乗せるのがやっとだろう、というくらいに括りつけた荷物がエアバイクの両脇を占拠している。
「煩い。俺はもともとお前まで連れてくる気は無かったんだ」
ついさっき、処分してくれて良かったのだ、とブーブー文句を垂れていたくせにあれもこれもと…。
うんざりして「本棚ごと落としちまえよ!」と言いたくなる。が、言ったら本気でやりそう。それはさすがに受け止めきれないので黙って降ってくる本を受け取る。
重たくて重たくて腕がもげそうだった。けどこれは落とさず全部受け止めなきゃとも思った。
想いの数だけ重いのだ。
要るだけ、なんて取捨選択はできないだろうししなくていい。本気で文句を言おうとは思ってない、どれだけだってこの両腕で拾い上げてみせる。
やっと降ってくる本の雨が止んで、よっこいしょ、と荷造りを始める。
本のページの隙間には期待していたような栞代わりの写真だとか、何かお宝の匂いがする意味深なメモだとか、そんなものは挟まっていなかった。ただ、一冊だけ中表紙の裏に「B.I.684 贈」と記された場違いな児童書を眺めていると、二階から降りて来た男に物凄く乱暴にそそくさと奪い取られた。
「星の系譜と神話の世界?」
可愛い見た目とは逆に随分と小難しい表題を掲げた絵本だ。アルケイディスの教育水準を慮って呆れていると、男は事も無げに「そりゃダルマスカとは雲泥の差だろうよ」と失礼なことを言った。
「この専門書だらけの本の山に一冊だけ残してあるって意味深」
「…捨てそびれただけだろ」
「そうかあ?違うと思うけど。なぁ、これで最後か?」
何か言いかけるのに先んじて問いかけると、男は僅かばかりはかるような目をした。こういうのは初めてではない。いなされるばかりでてんで相手にされなかったあの頃、男がこんな風にこちらを見ることは無かった。
変化が心地よくもあり、何となく寂しくもある。
この男の秘密主義は今に始まったことではないし、舌先三寸ではぐらかされたり頑として口を割らなかったりは慣れっこ。
「さっさとこいつをシュトラールに搬入しちまおう。ついでにビタリスにでも寄るか」
エアバイクに跨って話を逸らすと、男の目つきが和らいで張り詰めていた嶮しい雰囲気がほぐれる。
男は前者を選んだようだ。
優しげな目元の割りに犀利な眼光が揺らいで空を彷徨う。
劇場街のあるトラント区には飲食店や雑貨屋の立ち並ぶ商店街があり、ビタリスはその一画に店を構える大衆食堂だ。ラバナスタで言うところの砂海亭のような店である。
旧市街とは比べ物にならないほど価格は張るが、政庁と皇帝宮のあるゼノーブル区よりはよほど良心的だ。
「今日は俺の奢りだ。好きなもん喰っていいぞ」
斜めに逸れて生垣の薔薇に突き刺さっている視線と、傾げた首の後ろを叩いている手。
おもねると言うより照れ隠しに近い。
帝都に来るたび、財布の中身と相談しなければならない駆け出しの新米空賊としては、先達のありがたい厚誼には飛びつかずにおられない。
「やった!あ、その前にちょっと寄りたいとこあるんだけど〜」
上目遣いに見上げると、男はあからさまに気持ち悪そうな顔をした。何度も思うことだが、ちょっとは布団の中で以外でも好きとか好きとか大好きとか、いろいろそういうの無いのか。やることだけはしっかりやるくせに、俺が可愛くないのかアンタ。
「寄っていいよな?」
にこ、とトドメを差すと男は心持ち仰け反りながら「…ああ」と頷いた。




旧市街の住人か、そうでないかは服装や立ち振る舞いだけでなくちょっとした持ち物でも判別できる。
例えば鍵。旧市街では最低でも4本の鍵が必要になる。部屋の鍵だけで2本は必要で、玄関には2本。最も治安の悪い区画ではアパートメントの入り口の鍵まで合わせて5本などというのも珍しくない。
ささいな景気の変動はもとから地の底である旧市街にさしたる影響を与えはしないが、各地の魔石坑の採掘再開と終戦に伴い規制緩和から完全に通常運行に戻ったターミナルの影響で、旧市街にもちょっとした好景気の波が押し寄せている。
新しく臨時独裁官の職に就いたソリドール家の若長がやけに治安回復事業に熱心なこともあり、最近では鍵をじゃらじゃらと腰に下げて持ち歩く人間が減ってきた。
「まあ、埃は人を食い殺しやしないからね。寝る場所を選ばなきゃ、どこでだって生きていけるよ」
景気も治安も関係なく、今も三叉路のあばら屋をふらふらしている宿無しは、ぶつ、と音を立てて大振りの蝦にフォークの切先を突き刺した。
香辛料の混ざった黄緑色のソースを、それでぐちゃぐちゃ掻き混ぜ、一口で半分ほどを平らげる。
その腰には9本もの鍵が束になって下がっていた。
向かいでは同じように、こちらは素手で尻尾を握って蒸しあがっただけの蝦に噛み付く少年。彼の腰にはたった3本。
「そうだよな。俺も昔はダウンタウンのぼろい木賃宿を孤児院からもあぶれちまった連中と折半してさ、男も女も無く雑魚寝。パンネロも一緒にその辺に転がって寝てたし。
そこいくと今の暮らしは極楽極楽」
こないだ念願だった自分のベッドを手に入れたんだぜ、と嬉しげに報告する少年に対して、蝦を二口で租借してしまった相手は「へぇ、良かったじゃない。んじゃ、これからはお嬢の目を盗んで船に女を連れ込めるわけだ」とニヤニヤ笑った。
「馬鹿言うなよ。パンネロだけじゃなくて、他の奴らもいるんだぜ?じょーそーきょういくに悪いだろうが」
「情操教育ぅ?あ、やっぱそいういうの気にするの?仲間が若いのばっかだと。
俺なんか、早ければ早いほど愉しめていいと思うけどねぇ」
「フィロは今でも充分、耳年増なんだよ…。これ以上、詳しくなっちゃったらパンネロが可哀想だろ。おぼこいのにさ、けっこう赤裸々なこと言いやがるから、あいつ『私、もうついていけないかも』なんて、こないだ大変だったんだ」
「あらぁ〜。お嬢ったら可愛いのねぇ、俺が食っちゃいたい」
「それやったらフランに膾に叩かれるぞ。三枚に下ろされるかも」
「姐さんに槍で躾けられたりしたら、俺なんかものの一振りで再起不能じゃねえの」
「だから、死ぬよ、って婉曲に教えてやってんだろ。あれ、アンタ全然喰ってないじゃん」
「あら、旦那。食欲不振?」
今の今まで男のことなど無視して猛然と食事と世間話に夢中だった二人は、同時に押し黙ったまま苺パフェを睨んでいる男を振り返る。
「俺にこれを喰えと」
こんなものを?と言いたげに眉間に大渓谷を刻みながら、小さいスプーンを握ったままぷるぷる震えている。
ただでさえ、脂ぎった肉料理を平らげた後で食傷気味だと言うのに、苦手とする甘味…しかも生クリームのたっぷり乗ったカスタードを無理矢理パフェにぶち込むという荒業で、今にも中身が零れそうになっているこれを…これを…俺が…、

………ウッ

片手で口を押さえる。
冷や汗がじっとりと背中を濡らしているのがわかった。
「「えー?美味しいのに〜」」
喜色満面で声を揃えた彼らは、明らかに状況を面白がっていた。
「お前らいい加減にしろ!」
ガツ!と男が食卓の脚を蹴った拍子に落ちそうになった食器をそれぞれ、さっ、と片手で持ち上げる。グラグラ揺れて今にも倒れそうだったパフェは「そのまま落ちてくれー」という男の願いも虚しく少年の指一本でお釈迦を免れた。
「せっかく坊主が厚意で頼んでくれたってのに。ま、いいや。旦那が要らないってんなら俺が〜…」
にこにこしながら、いただきまーす、とパフェを引き寄せようとした手を叩き払い、併せて卓の下で足を蹴っ飛ばして奪い返す。
勢いに任せて一口分だけガブ!と口に突っ込んだ男は、スプーンを咥えたまま斜めに傾いだ。
無言のまま、俺は戦った…結果ではなく過程を評価してくれ、とでも言いげに少年のほうにパフェを押しやる。
「大げさだな。いくら甘いの苦手だからって」
死相が浮かぶどころかエクトプラズマがはみ出ていそうな男の唇からスプーンを引き抜いて、少年は嬉々としてパフェをぱくつく。
こんなに美味しそうに食べてもらえるなら食い物も本望だろう。見る間に減っていくそれを見て、少年を化け物でも見るような目つきで眺めていた男は別のことに気がついて少し気分が浮上した。
これはもしや、所謂…
「間接キッス〜♪」
坂を転げ落ちるように下降する。
たった一言で浮上した機嫌を大暴落させた滑瓢の襟首が、ギュウと締め上げられた。
「死んでくれ」
「七たび死んだ男、ジュールに言う科白にしちゃ陳腐だねぇ」
減らず口を返し、添え合わせのパセリまで綺麗に食べつくしてから「ご馳走さん」と手を合わせる。
大げさだと一蹴できない通り名だと知っているので、男は再び黙り込んだ。
「にゃにゃらびひんらおにょこ?」
口の周りについたクリームもそのままに興味津々の態でジュールに目を向けた少年に「口の中のものを片付けてから喋れ」と男が窘めたが、軽くかわされてしまった。
「そのうち一回分の死因、幾らで聞かせてくれる?」
ジュールは弓形に口の端を釣り上げて、チラッと男を一瞥した。
「驕ってもらっちゃったしねぇ。そいつの御代はサービスしとくよ。お前さんに借りを作るならまだしも、旦那にゃあ借りておきたくないんでね」
「………。」
「はいはい睨まない睨まない。で?」
臍を曲げたらしい男に対して、少年は卓の下で何かしたらしい。不機嫌で黙っていると言うより、何やらそう装っておきたいと言うような意固地で黙っている気配に変わっている。
あっつい、あっつい。いいねぇ、若い子たちは〜。
一気に年を取った気分になりながら、ジュールは白ワインのグラスの淵を指で撫でた。




あるところに男がひとり、そしてそれを愛する女がひとり。
男は仕事、割り切っていた。女も仕事、こちらは覚束無くなるほど紕っていた。だが実は本気になっていたのは男で、酔っていただけなのは女のほうだった。
「要するに、愛の為に投げ出したのさ」
全て失くしてしまうとわかっていて、死ぬとわかっていて。
敗因は、男は知っていて、女は知らなかった真実。
「同じ骨と肉を分かち合っていたから」
そういうもので繋がっている。
その繋がりは崇高だと思っていた。身近に転がっているのに、けして男の手に入らなかったものだから。
男の、僅かに残ったまだ擦れていない真っ白な部分。若く柔らかな部分が、そういうものに憧れていたんだろう。硬く施錠しなくても安らげる場所、そんなものが無くても生きていける。生きていけるのに、望んでしまった。
喩え女が望むように一緒に添えなくても、女が笑ってくれてさえいれば、そしてその笑顔を時折思い出せさえすれば。
そんな愚かなことを、独り善がりに決めてしまっていた。
「最終的に男を殺したのは女の裏切りでもなければ、そいつが撃った銃弾でも無い」
女が吐いた言葉さ。
瀕死の男を前に、全てを知った女は泣いた。
『理想だけを押し付けて、先に私を殺したのはあんただ』
いつも綺麗にしていた女は乱れた髪を直しもせずに、折れた踵を引き摺ったまま酷い後姿で去っていく。
そのときやっと男は目が覚めた。
「男はけじめをつけたよ。女は今…」
ゆぅん、と指先から響いた音は冷たく寂しい。少しだけ残った琥珀色のワインに映る顔、人を喰った笑みの消えた男の顔も。
男は…ジュールは、そこで話を止めた。



鍵をじゃらじゃら言わせながら去っていく。
薄曇りの夕焼けはお世辞にも美しいとは言えず、くすんで侘しい。雲の隙間から指した茜色に舞い上がる乾いた埃が、ちらちらと光って小さくなっていく猫背の背中を霞ませて足元に落ちた。
あの鍵のうち一つでも、あの狡すっからく捻くれて…でもどこか優しい情報屋が安らげる場所があるだろうか。
「お前が落ち込んでどうする」
「うん」
「帰るぞ」
「うん」
「…今夜、泊まっていけ。いいな」
地面に差す男の影だけを見つめていた少年は、驚いて視線を上げた。
男から誘うのは稀だった。
返事の無い少年に対して重ねて何か言うことはせず、男はさっさと暮れなずむ商店街を抜けてエアターミナルへと歩いて行ってしまう。慌てて背中を追いかけた。
ジュールの話に落ち込んだわけじゃない。ただ、男のことを考えていただけだ。
同じ血肉を分けたからこそ、互いに相容れないことが憎くて憎くて寂しいのか。

その銃声はどんな剣戟よりも重く、長く、咆哮した。

床に斃れ伏した父親と、指をトリガーに引っ掛けたままそれを見下げる息子を見比べて。
あの頃、何もいえなかった自分。今も、何も言えない自分。
「あんた、鍵を幾つ持ってる?」
男は、何だ藪から棒に、と眉を顰めたが「3つだ」と答えた。
一つはシュトラール、もう一つは少年も場所を知らない塒だろう、残る一つは…どこだろうか。ターミナルのドックはあくまで借り物であって鍵は持ち歩くものでも無いし、もしかしたらどこかに専用のドックを持ってる?
指折り数えて想像を巡らせていた少年は、いきなり足を止めた男の背中に鼻をぶつけた。文句を言う前に頭を掴まれる。
「RRWS‐WR09T9696CO12N‐CEAL08」
「それって…」
世界で一対だけの旧式の通信機。そのコードが繋ぐのは、声だけでは無い。鍵は、錠だけにくっついている物じゃ無い。
「…俺も3つ、持ってるよ」
アンタとお揃いだ、と囁くと頭を鷲掴みしていた指が頬を滑り落ちた。
目を閉じる寸前、どこかで今も啼き続けている竜の哀しい咆哮が微かに聞こえた気がした。













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2011.05.01(再掲)


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