最初に死があった。次に言葉の礫があった。
信じていなかったから裏切られはしなかったけれど、神様が遠くへ行ってしまったのはそれからだ。初めにお祈りの言葉を教えてくれた両親も、いつも並んで暁光に向かい跪いた兄弟も、その頃はずっとそばにあると思っていた風景はもう無い。
人は生まれながらに業を持っていて、毎日を一歩一歩進むために道行を照らしてくれる光の神へ祈り続けるのだと言う。
迷わぬようお導きください、と結ばれる言葉を虚しいと思ってしまった時、既に神様は遠ざかっていたのだろう。
進んで剣を取った。血を浴びた。
たくさん殺した。たくさん奪った。
でも最初に屠ったものは、神様だったのかもしれない。




雪は嫌いではない。
皆同じに鼻の頭を赤くして、林檎のようになって。肌を差す冷たさに肩を竦め、寄り添い合って頬を並べて笑っていた。
心の襞を撫でる真っ白な記憶は、いつでも優しかった。
「っくし…っ!」
垂れた洟を、ずず〜、と啜ると黙々と歩いていた男が振り返った。
「寒いか」
「全然」
「痩せ我慢も大概にしろ」
男は呆れて、防寒衣の代用に毛布で俺をぐるぐる巻きにした。
黙って巻かれながら、本当に寒くないのに、と思う。おそらくこの男も俺が本気で寒がっていないことを知っている。それでも優しくしてくれようとするのは、この男にとっても雪があたたかいものだからだろうか。
洟を啜るたびにどんどん優しくなる眼差しが、目と目があった途端にしかめっ面に取って代わった。
戦って身体を使えば交感神経が刺激されアドレナリンが分泌される。自ずと活性化する新陳代謝のお陰で掌が汗ばむほど暖かくなる。心から置いてきぼりを食ってそれなりに凍えていた身体は、やっと熱を持った。でも毛布は返さなかった。自分の毛布を男に押し付けて、強奪したそれはずっと俺の物にした。
「泥臭ぇな。洗ってあんのか、これ」
「パンネロが洗濯してくれてるよ!何だよ嫌なら返せ!」
「おっと、要らんとは言って無いだろう。どうせお前、それ、借りパクする気だろ。だったらこいつは俺の物だ」
冗談口を利くまで巌のようだった横顔。高く聳え立つ山並みのような峡谷から吹き降ろす雪風に、ぶるっと肩を揺らして外套代わりに羽織った毛布の前を手でかき寄せる。その頤から顎の辺りに、苦いものを食い縛る強張りが見えなくなったことにホッとした。悪態を吐いて天幕へ入って行く上背の背中を見送る。

あんたの後姿なんて、もう見慣れて見飽きてうんざりする。

隣には行けない、前にも行かせてくれない、後ろに居るしかない。
いつからだろうか、どうしてだろうか。
何か物欲しくて物寂しい、けどあたたかい。あたたかくて息が苦しい。
「どこ行くの、もうすぐ夕飯だよ!」
「ちょっとそこまで」
居ても立っても居られなかった。
吐き出す白い靄で煙る眼下には褪せた色の天幕が並び、所々赤黒い煙に混じって炊き出しの細い湯気が侘しく立ち上っている。少し汚れて黄ばんで見える薄水色の空に吸い込まれた。ここは大峡谷の中でも一番、標高が高い。先程悩まされた吹雪は、見下げる曇天のはるか下だ。本当なら突き抜けるような青空が、今は下の曇り空と大差無い。
白と灰色とぽつぽつ頼りなく彩る灯りを見下げ、一人きりで絶壁に立つ。
これから暖かいところへ行くんだそうだ。樹林を抜けて海へ。
いまだ見たことの無い大きな水溜り、どんなものなのだろう。兄さんは本の挿絵を指でなぞり「海が水溜りなら、僕達は水面で揺れる落ち葉の上で小さく暮らす虫のようなものか」と笑っていた。湖や池のように海も凍るのかな、と。キャラバンの荷車の中で、天蓋の隙間から見えるしんしんと降りしきる雪を見ながら囁き合っていた。
これから暖かいところへ、なのに寒々しい気持ちだ。
昼間、難しい顔を突き合わせて地図を広げていた男の横顔は浮かなかった。釣られて俺も浮かない気分になった。本物の海を見られるんだ!と躍った心も萎んでしまった。
物事がどう運んでいるのか、ここまで来てわからないほど馬鹿ではないが、それでも荷車に詰められて転がされていく牛になった心地だ。この先に、膾に叩かれるより悪いことが待っていたりするのだろうか。とっくにここが地獄ではあるけれど。
水溜りの上の落ち葉で暮らす俺たちは、地図の上ではさらに小さく生きていて、影も形も見えない。だから大量の爆弾を落として天幕が燃え、焼け出され炙り出され苦しみ喘ぐ人の声は、艦上の人の耳には聞こえない。誰にも届かない。
ここは天に最も近い場所なのに、届かない声を祈りを聞いてくれるはずの神様はいない。
導いてくれるんじゃ無かったのか、迷わないようにいくら道行が暗かろうと照らしてくれるんじゃなかったのか、光の神様は、ファーラムは。俺は随分、あんたを無視したし祈りもしないで遠ざけたけど。ここの人達はこんなにあんたを頼ってるじゃないか。
人や家畜が焼ける嫌な臭いがまだ周囲には微かに漂っていて、鼻が曲がりそうだった。
押し殺してきたドロドロしたものが込み上げてきた。思い出したくなかった。ずっと暖かい記憶ばかりが胸にあったのに。白く柔らかだった気持ちに、虫食い穴が開く。そこからたくさん、汚い色が身体の中から洩れてしまいそうだ。
すごく怒った時と似てるけど、それにしてはやたら目頭が熱い。
鼻の奥がツンと痛かった。
「明日も吹雪かな…」
うんと吹雪いて、真っ白になればいい。祈る気持ちで呟く。
「いや、そうでもないだろ」
トンと軽く脹脛を蹴られた。まったくの不意を突かれ、真後ろから話しかけられたことに仰天して飛びのくと、足元に地面が無かった。
「うわぁ!」
「…っと、危ねぇな、おい」
肩を掴み止められなければ、今頃まっ逆さま。礼を言おうか文句を言おうか、迷ったのは一瞬で。結局、俺はどっちもしないで黙った。指を握られ手を引かれ、男の手がそれほど大きくは無いことに気がついた。長い指、切り揃えられた爪をじっと見る。関節が赤くなって、爪の根元が色を失ってる。
岸壁に立ち尽くしていた俺を、ずっと見てたのか。
見られた後ろめたさより、どう思われたかが気になって含羞に顔が熱くなった。
落っこちそうになってからドキドキと落ち着かなかった心臓は、天幕へと戻る道すがらずっと落ち着かないままだった。
ぐぅぅ、と正直な腹の虫に託けて「腹減った〜」と呻くと、男は振り向きもせずに「だから呼びに来たんだろ。手間をかけさせるな」と嘯いた。
ずっと見てたくせに、とは言えなかった。
また息苦しくなって、もう手を掬ばれてしまったから逃げ場は無くて、これがパンネロがよく言う「せつない」ってことなのかなと思う。
翌日は男の予見したとおり、吹雪かなかった。雲は灰色の濃淡がいっそう重く、今にも白い礫が降ってきそうだったが、とうとう峡谷を出るまで雪は降らなかった。
重苦しいほどに空は暗いのに、敷き詰められた雪は微かに差し込む日差しを反射して眩しく光り、峡谷の岩肌を照らす。
辺りはその反射光だけで明るくなった。足元に光があった。
愛憎も好悪も、あたたかな記憶も冷たい先触れも、いっしょくたに眩しさに溶けていく。
「置いていくぞ、坊主」
俺は神様を信じない。信じられるものは自分で選ぶ。見慣れて見飽きた背中、でも目を逸らせない背中が目の前にある。そこに道がある。今、俺がすることは、祈りではなく歩くこと。走ること。
白く雪原だけに浮かび上がる光の上を、さっさと歩いて行ってしまう背中を追いかけた。













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2011.05.01(再掲)


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