救国の聖女はダルマスカを取り戻し、戦争は終わった。…取り敢えず、今のところは。
 深々と抉られた土、岩盤を割って地層の露出した亀裂、その中心に根を下ろすように突き刺さった黒鉄の楔。空中要塞バハムートが及ぼした被害は甚大なものだった。ガラムサイズ水路を基盤とした巨大水利施設の一部が完全に崩落し、陥没した穴からは夥しい水が溢れ、周囲を水没させてしまったのだ。
 その一滴一滴が砂漠の中のオアシス、ラバナスタの宝である。
 今のところ王宮とラバナスタ市街地に影響は出ていないものの、状況は楽観し難い。
 墜落地点である西ダルマスカ砂漠に点在する集落へは、ガルテア時代からある古い水脈に沿うようにカレーズの水量調整区と通水制御区画が延びている。一部とは言え壊滅的な打撃を受けていて、今も夜に日を継いで復旧作業が執り行われている。
 近隣住民には臨時の貯水タンクとチョコボ隊による定期的な配水という対策を用意したが、いつまでもそこに人員を割いている余裕も無ければ金も無い。そう、先立つものがすっからかんなのだ。
 知り合いの少年は「ダルマスカのものを取り戻す」と大口叩いて宝物庫に忍び込み、運の悪い空賊ともどもとっ捕まってナルビナ送りにされたが、アーシェもその心意気だけは同じだった。手段はもっと現実的だったが。

 ダルマスカ王国はアルケイディア帝国に対し、神授の破魔石を戦場に用いたことによる被害は国家間の紛争の枠を逸脱した現生人類文明への破壊行為である、として戦争賠償を要求したのだ。

 通常、戦争賠償とは敗戦国が戦勝国に対して支払うものであり、先の戦争でダルマスカはアルケイディアへ莫大な賠償と利権の譲渡を強いられ、王家を喪い国民の離散を懼れたダルマスカはこれを守った。
 アーシェは己が殉死したとされていた時期に毟り取られたこれらのすべてを補って余りある補償を、ラーサーに求めたのである。
 戦死した兄に代わり臨時独裁官という地位に納まっているラーサーには大いに呆れられた。夜光の砕片、人造破魔石、暁の断片に関しては、弁解の余地はない。しかし、黄昏の破片で天陽の繭を破り、空中要塞バハムートの動力源として利用されてしまったのは、アーシェの責任も大きいのだ。彼の言い分はアーシェにとって痛いところではあった。
 国政が未曾有の大混乱で首が回らないのは帝国とて同じことだろうし、苦労はお互い様なのでわからなくもない。
 幾度となく話し合いの席が設けられ、正式な即位を控えたアーシェの相談役をつとめるオンドール侯の執り成しがあり、最終的には賠償の範囲はアーシェが突きつけた当初の半分ほどまで削られてしまった。けれども歴史上、初めて戦勝国側から敗戦国側へと戦争賠償が行われたという事実は、ダルマスカ王国領ならび被害を受けても黙ってされるがままでいるしかなかった周辺小公国にとっては、せめてもの慰めとなった。

 とは言え莫大な賠償など手早くポンっと渡されるわけではないので、煩雑な手続きをへて手元へ戻ってくるまでは時間がかかる。国家資産はいくら切り崩し捻り出しても足りないくらいだ。なのに、これ以上治水事業に金を回すわけにはいかない。執務室と化としたアーシェの書斎には戦後処理の名目の懸案が文字通り山積している。書類に埋もれて判を捺している。こんなにもまだやらなければならないことがある。
 巨大なグロセアリングから零れたミストの残滓が影響しているのか、湖岸にはミスト濃度の高いヤクトに自生する亜種に似た突然変異の植物が繁茂し始めているらしく、アーシェが眉間に大渓谷を刻んで睨みつけているのはその上申だった。

「ふざけているのかしら」

 治水事業に関わる書類にだけ判を捺した。
 背筋を強張らせて立ち尽くす官吏を一瞥し、無言で重厚な胡桃材のデスク上に斜塔を造る書類の山を目で薙いだ。見てみろ、私に戯言に付き合っている暇があるか、と言わんばかりの冷淡な視線を前に官吏はひたすら平身低頭した。

「いえ、彼らは真面目に…その、真剣に、ですね」

「湖岸及び水中の沈水植物の変異種に関する調査は許可します。ただし研究会単独での調査は許し ません」

 グロセアリングの周囲を纏わりつくように繁茂した植物に害があるかどうかは調査の必要があるが、あれはアルケイディア帝国軍の飛空艇技術の結実とも囁かれる空中要塞の残骸。ガラクタはガラクタでもある意味垂涎の的と言うか宝の山と言うかエトーリアの秘密の花園と言うか。


『うちは一切、金も人も出さないんでおたくのものはおたくで処分してください。正直、目障り。さっさと解体でも何でもして持ってって』

『言われなくても引き取ります。あまりどこそこ弄らないで下さいね。
あんなでかいものそのまま運ぶのは無茶無謀ですが、国家の枢密にも関わる機密の塊をおいそれと解体なんてできますか。今、臨時独裁官なんてぐらついた椅子なものでちょっと尻の据わりが落ち着かないんです。邪魔な首を二つ三つ刈り取るまで待ってもらえませんか』


 微笑みながら交わした握手でお互いの手の甲に爪を立てていそうなやり取り。立ち会ったジャッジマスターとビュエルバの御大とロザリアの国使は三者三様の如何ともし難い気まずい表情で見て見ぬふりに徹した。


「ラーサー殿に話を通します。判を捺すのはそれからでよいでしょう」

 そそくさと退出した官吏の背を見送って、判を置いたアーシェは側仕えに向かって「少し休むわ」と言い残し、私室へと向かった。ナイトチェストの上に据えた端末に向かい、回線を開く。
 待たされるかと思いきや、目的の人物はすぐに出た。
「…おや。こんな昼日中、お声がかかるということは、火急の御用でしょうか?女王陛下」

 晩い昼食といったところか、手袋をしていない手でケーゼクライナーを掴んだまま応答する。魔石を利用した最新の通信端末のパネルには、几帳面で潔癖な彼らしからぬ少々慌てた様相が映っていた。

「ほっぺにタマゴがついていますよ、皇帝陛下。火急というほどではないけれど、ある意味急がないと危険な案件ではありますね。お時間を頂いても?」

「ええ、もちろんです」

 湖岸に繁茂した変異種の調査は予想通り苦い顔をされたが、ジャッジを付けるならば、と了承を得た。
 先送り先送りになっていた戴冠式の日取りが昨日ようやく決まり、オンドール候の口添えもあってロザリアからは国使だけではなく親交の証しとして皇帝の親書を携えた皇太子も招かれることになったことを告げると、その時ばかりは心から「おめでとう。アーシェさん」と祝いの言葉がノイズの混じる端末から聞こえてきた。

「それでそちらは一旦、落ち着きますか」

「どうかしら…。目ぼしい火種は全て消したつもりだけれど、埋み火がどこかに燻ぶっているかもしれません」

「禍根を残さず、と言うには我々は犠牲を多く出しすぎましたから。ですが…」

 ラーサーは不意に言葉を切って意味ありげに微笑みを深くした。
 普段、彼の口元を彩るアルカイックな笑みがそうした変化を兆すとき、決まってこちらが今話したくないことを突っ込まれる。
 身構えた女王は話を逸らす前に「…琥珀の谷に行かれたそうですが、アルシド殿下はお変わりありませんでしたか?」と言われて唇を噛んだ。

「ロザリア帝国とダルマスカ王国の間には今のところ表に出てくる懸念のある大火の火種も禍根もありませんから」

「………。」

 沈黙したアーシェが目を伏せると、アルケイディア帝国の若き皇帝は笑みを消して「殿下のお心を変えるも変えないも全てアーシェ陛下のお気持ち次第だと思いますよ」と言い添えた。
 夕陽に照り映えて光輝く峻烈で荘厳な岩壁に抱かれた琥珀の谷を見上げながらアルシドと交わした会話を、アーシェはぎゅっと噛み締めた唇を震わせて思い返していた。




『では、私に申し入れのあった件についてはそちらの…その…御方の一存であって、殿下の関知するところでは無いと了解してよいのですか』

『ええ、その件に関しては。…だからそんなに肩を怒らせて緊張しなくていいですよ。ここには人払いは命じてありますが、私の腹心も貴女の臣下も声高に呼べばすぐ飛んでくる場所に居ますから』

 宥められてホッとするのと同時に生娘でもあるまいに、外面を取り繕えないくらいあからさまに神経を尖らせていた自分が恥ずかしくなった。
 アルシドの生家のごく限られた人間しか使えない花印の捺された書状の中身を読んだ時は目眩を感じた。ロザリアはこの手で攻めてくるわけか、と。これがアルシドの本意であれば相応の対応を決めねばならないと思い悩んでいた矢先に園遊会への誘いを受けて、アーシェとアルシドは内々に繋ぎを取ったのだ。

『過ぎた飽食は身を病ますだけでしょう。もっと言うならこの国には病巣となるだけの素地が既に備わっている。小国には小国の憂患があろうとは思いますが、こちらにも隙あらば紛擾に乗じて…というきな臭い気配がありましてねえ…。
 だからと言っては女王陛下にご無礼でしょうが、正直なところ私としてはこの時期に貴女を口説くのはどうか、と』

『…殿下はロザリアを内から病ます病巣さえ排除できればそれでいい、余計なものは何も望まない、むしろ火種を背負って嫁されるくらいなら要らぬと申されるのですね』

『いやいやいや、面倒臭いことこの上ない帝位こそ御免ですが、私だって木石ならぬ身です。何も望まないってこたぁ無いですよ?…欲しいとなれば何が何でも手に入れましょう。火種なんぞ飲み干して』

 こんなふうにねと軽口を叩きながら、ショットグラスを縁取っていた焔ごと酒を飲み込んで見せた。
 アルシドの言葉をどう受け止めるべきか黙考していたアーシェは、肌寒さを感じて小さく身震いする。その華奢な肩へ温かい上着が掛けられた。天鵞絨と一角獣の絹より柔らかい毛皮で織られた逸品だ。
 持ち主の体温が宿るそれですっぽりと包まれ、アーシェが物言いたげに視線を上げる。
 男性的な陰影の深い威容はどことなく今は亡き忠臣の面差しを思い出させた。両肩を包む厚い掌の重みも。神都で初めて出逢った時にも感じた。この手を差し伸べられれば考える前に重ねてしまいそうな…。頼ったことを恥じる前に、そんなことを気づかせもせず力強く揺ぎ無い包容で全てを支えてくれる。頼れる力を感じさせる大きな手だった。
 ウォースラと決定的に違うのは息を飲むほど近くにあった黄褐色の虹彩を持つ昏い双眸だ。
 帝位は要らぬ、と公言しながらロザリアで最も王気を備えているのはこの男だった。
 彼は私の騎士では無い。私は彼を御すことは出来ない。確実に言えることは、私は彼に嫁すことは出来ないと言うこと。
 なぜなら私は王だから。
 王は、私は、誰にも何にも跪かない。ロザリアにも、アルケイディアにも。

『単品で婿としてならこのまま輿に乗せて貰って帰りたいくらいの男なんだけど…』

 闇に沈みつつある琥珀の谷を背負い、いっそう近寄り難い空気を纏ったアルシドを見上げて、気づけばそんなことを呟いていた。
 目を丸くしてポカンと口を開けたアルシドの表情に己の失言を自覚したアーシェは、慌てて取り消そうとした。が、豪快に噴き出して爆笑しだした男からがばりと抱き締められて、違う意味でも大いに焦った。
 顔を真っ赤にしてもがく女王を、猫の仔と戯れるように腕の中で軽々と扱っていた皇子。最低限の節度と距離は保たれた抱擁だったが、アーシェがわなわなと震える拳をグッと固めたのを目端に収め、アルシドは漸く腕を弛めた。

『自分では変り種の皇子を気取ってましたが、ダルマスカの新女王陛下もなかなか面白い方だ』

『………。』

『自慢ですが私を欲しいと言ってくれたご婦人はたくさん居ました』

 …そこは"自慢ではないですが"と言うところでは。
 目が口ほどに物を言っていたのか、今だ笑みの余韻を残す口元を片手で覆っていたアルシドは、まあ聞いて欲しい、と片手で不機嫌顔の女王を制した。

『現在の付加価値と将来性が最も彼女らの心を鷲掴みにしてるんでしょう。…ですが、私は再三公言している通り帝位に興味も関心も無い。それどころか、自家の繁栄を願うなら私より聡慧なる兄上に皇帝の座を固めて頂き、身軽な私が手札を駆使してダルマスカやアルケイディアとの折衝を行うのが磐石の構えだとするスタンスは、昔も今も変わっておりませんでね。
 隠しても騙してもいないんですが、そこのところがどうも上皇陛下の奥宮におわす御方様はじめ皆様一様に御理解頂けない』

『…私も貴方の有益性を見越して我が国にも一人くらい欲しい人材だと思っただけよ』

『おお、いいですねぇ。その忌憚無い歯に衣着せぬ率直な言い方。今の貴女にはそちらが似合ってますよ。…神都でお会いした時のことを覚えていますか』

 軽口から改まった口調で言われて、アーシェは眉を顰め頷いた。懐疑を篭めた視線は、物堅く嶮しさを増したアルシドの視線と絡まって戸惑いへと変化する。

『あの頃の貴女には私の背負っている付加価値と将来性に信を置いて頂いて、一時的にでも頼るよすがとして私の手が必要かと思われた。亡命の件はそのつもりで申し出たことでした。
 私の目に映る貴女は姫でした。私に語らってきた姫達と同様の、ね。
 今しも折れそうに撓んだ身体に誰かが添わねばならないと、…はっきり言うなら王たる資格を見出せなかった。この両肩にダルマスカを任せて、ゆくゆくは大砂海を越えてアルケイディアのロザリア侵攻への布石、となれば黙って見過せません』

『でしょうね。私もきっと私一人だったら貴方の手を取っていた』

『だがその懸念は無用でしたね。昔の貴女と今の貴女が私に見出す有益性はまるで性質が違う。出逢った頃の貴女のままなら、私は貴女をただ利用しなけりゃならんかった。今の貴女に求められて光栄ですよ。有り難くもある。
 アーシェ女王、今の貴女になら私も喜んでお役に立ちますよ。
 なんたって貴女は私に…、いえ皇家マルガラスにダルマスカ国王として利を齎してくださるんだから。そうでしょう?』

 アルシドの感情の起伏に合わせて色味を増すダークブラウンの双眸は、もはや濃い黄金に近かった。暗黒を背負って眼前に立つ男の姿は、何か大きな獣がジッと伏して目だけを爛々とさせているのにも似て、アーシェはその気配だけで後ろに圧されそうな威圧感を感じる。
 怯えるより触発された。昂然と挑戦的に頤を上げ、アルシドを見据えて『…回りくどいわね。はっきり言ったら?』と言い放つ。
 剣から離れて久しい身体に、血湧き肉躍るような熱い高揚感が漲る気がした。
 これからは剣を合わせて戦うのでは無い。でもこの高揚と緊張とは佩かせに手を掛ける瞬間に似ている。
 しかし、機嫌のいい麝香猫のような笑顔を浮かべた変り種の皇子は『…いいえ、まだ今は止しときましょう』と言って、アーシェが跳ね返した切先を大人しく鞘へと収めてしまった。

『いやあ〜、面白くなってきましたねえ。これだから皇子は辞められない』

 まるで他に職の就き手があったかのごとき不遜な物言い。彼は義務も権利も自分で選ぶのか。これが彼の地なのだろうと思うと憮然としていいのか感心していいのか…、また羨望を感じるべきか。

『ま、いろいろやりようはありますよ。ローゼンバーグ将軍の例に肖って今度は私がロザリアとダルマスカの架け橋になるため女王陛下に嫁ってもいいわけですし』

『私はバッシュをラーサー殿に嫁したわけではないわよ。人聞きの悪いことを言わないで。と言うか嫁るってなんなの、それを言うなら入り婿でしょう!』

 ロザリアもとんでもなく捻くれた変り種皇子を抱えているものだ…、とアーシェは首を横に振った。それと同時にこれからの自分の裁量によってはこの男がダルマスカに及ぼす利害にまで考えを巡らし、げっそりと深い溜息を吐いたのだった。




 遠い目をしていたアーシェは画面越しの咳払いでハッと我に返った。

「首を突っ込む段階じゃないかなと思ったものの、ガブラス…、いえ、バッシュ殿が気を揉んでいまして。彼に一言頂ければ僕自身、気が楽なんですが」

「…公安第9局は相当暇を持て余していると見える。大きなお世話よ。貴方は自分の仕事にしっかり努めなさい!」

「…と、お伝えすればいいですか」

「ええ、お願いします。皇帝陛下に伝聞を頼むだなんて何をうろたえているのかしらあの人は…。
 私からご無礼をお詫びします、ラーサー殿」

「いえ、彼はこれまで自制してよくやってくれました。あまりに自己を抑えて尽くしてくれるので、僕としてはどう労っていいのか計りかねていたんです。
 今回、アーシェさんのことを切欠に彼が僕に歩み寄ってくれたのが嬉しいくらいなんですよ。だからどうかお気になさらず」

 苦笑したラーサーからの通信映像が消えるのを待って、アーシェは眉間に寄った皺を揉み解しつつ通信を切った。静かに長く溜息を吐く。そのままソファに腰を下ろし、行儀悪く横に倒れた。桃色のクッションを腹に抱えて寝転がる。
 変り種皇子とのあれこれや、纏う鎧は違っても心をダルマスカに残すあまり別れた時分よりずっと心配性になってしまっているらしい元将軍は一先ず脇に置いておくとして…。
 おめでとう、と言われて初めて「ああ、ここまで、やっと…長かった」と肩が斜めに下がった。

 立ち止まり、少しでも振り返ってしまったら、ひとりが怖くなる。
 6人で歩いた轍の跡が今も確かに心には思い起こされ、それは甘い痛みを齎す棘だった。

 伸ばした背筋を丸めて膝を抱えていると、じわじわと疲労感が沸いてくる。
 開け放ったテラスから線を延ばす日向に温められたクッションは涙が出そうに気持ち良い。今日ぐらい、と許してしまえば、胸の奥で塞き止めていたものがぽろぽろと毀れそうで。歯を食い縛って心を退けた。
即位することでひとつ峠を越すことができる。けれどそれだけだ。
まだこれからなのだ。

「…あ。またほつれてる」

 ぼんやりとクッションにくっついた房の部分を弄っていた指が、綻びを見つけた。この程度なら侍従を呼ぶに値しない。せっかく人払いをして私室に引き篭もったというのに、見たくなかったし見られたくなかった。
 瀟洒なチェストの二段目からみすぼらしい籐の籠編みの小箱を出し、真鍮の指貫を嵌めて慣れた手つきで綻びを繕っていく。
 精神統一と言う名の現実逃避のため、アーシェが没頭したのは音曲でも歌劇でも無く繕い物だった。
 衣装の綻びやほつれを己で繕ってしまっては侍従の仕事を奪うことになるので、ひたすらクッションを縫っている。お陰で書斎も寝室もクッション塗れ。いつのまにか百花繚乱、極彩色のさまざまな…変な形のクッションが。本人のやさぐれた心境とは反してかなりファンシーでピンキーなお部屋になってしまった。ガルテア様式の流れを汲む、植物の茎や葉のような自由曲線を基本とした調度に囲まれるなか、アーシェの手から生み出される歪なモコモコだけが異様に浮わついていた。
 無心になってちくちくと針を進めていると、遠慮がちなノックの音。

「来たわね…」

「ええ、来ました。女王陛下のお気を煩わせて申し訳ない」

 包み隠さず不愉快そうに口をへの字にしたアーシェに対して、先程の官吏よりもさらに低い腰でペコッと頭を下げた青年は、招き入れられた部屋の扉が閉まったのを確認した後、「ほんと懲りないよね、うちの国王陛下も…。我が父ながら辟易するよ」と苦笑してみせた。

 彼こそが、今現在アーシェの頭を悩ませる最も大きな悩みの種である。

 表向きは『外交特使としてダルマスカで遊学中の小国の王子』、アーシェにだけ見せる裏の顔は『お家騒動を嫌い、厄介事を背負ってこちらへ逃げてきた腹黒王子』、腹蔵ある人物であるのは明らだが、あまりにも板につき過ぎた感のある腰の低い態度には同情もする。
 しかし、こちらとて精神的に多大な迷惑を被っているので、本気でそろそろお国に帰って欲しい。

「昨日、貴方のお父上から書簡が届きました」

「…あー。話が通じないんだろ。わかるわかる」

「よくもまあ玉座に就いたものと思いますよ。よほど優秀な官僚が周囲を固めていたのでしょうね」

「数年前までね。最近は暗愚ばかりが重用されて、俺が懇意にしていた連中が悉く地方へ左遷された時はガッカリしたよ。国王陛下はいよいよ駄目だなって。兄貴たちはよく我慢してるよ。はやく隠居してくれないかなあ、あのクソ親父」

 青年は短く刈った榛色の髪を苛立たしげに手櫛で掻きあげた。




 ナブラディア地方の西の端、谷間にある小さな国から遠路はるばる供を一人だけ連れてダルマスカへと辿り着いた青年。王位継承権第何位だかの王子様だった。  旅装に包まれた長身痩躯、榛色の短い髪と青灰色の双眸、頬骨の高い精悍な顔立ちはダルマスカ地方やナブラディア地方に見られる典型的なガルテア系で、街中にいたとしても高貴な身分とはバレずに素通りされてしまうような、そんな朴訥とした青年だ。
 彼がアーシェの元を訪ねて開口一番、告げたことは。


『貴女の愛人にしてくれないか』


 侍従が止めに入らなければ、末席とは言え他国の王族に平手をかますところだった。
 列強二国と和平調停に印し、アルケイディア帝国に侵略された諸国としては初めて蹂躙を跳ね除け独立した国ダルマスカ。ガルテア時代からの歴史ある王統と、空中都市ビュエルバの御大の後ろ盾。大国の脅威に晒される小国が同盟を結びたいと打診してくることは間々あることだったが…。
 縁戚関係で縁を深めるにしたって普通、寄越されるのは王女だろう。さらに言うなら私は妙齢ではあるが曲がりなりにも女で、常識的に考えてその手で迫ってくる国があるとは思えなかったのに。
 自身の婚姻を重要な外交カードと見做している今のアーシェにとって、政略の絡まない恋愛沙汰は百害あって一利なし。その暇があったら机上に聳え立つ書類の斜塔崩しに勤しみたいところなのだ。

『一目ご覧になってお気づきになりませんか』

 一旦、控えの間で昂ぶった気を静め戻ってきたアーシェは、青年が何かを言う前に両手を広げて見せた。
 屋内なのでヴェールは取り払っていたものの、足のつま先まで黒または暗色の布で仕立てた衣裳。国王として執務に取り組む時は、必ずこの格好をしていた。華美な装飾を排し、実務的であるが、なによりの役目は対外的なアピールだ。

『喪服を意識した仕立てですね。噂通りだ』

 鷹揚に微笑む青年は、この姿を見てすごすごと引き下がってきたその他大勢とは、少々毛色が違うらしい。  アーシェは眉間の皺を深くした。

『今や巷では、救国の聖女はダルマスカという国を愛し仕えているから、たとえ相手がアルケイディアやロザリアの皇子だとしてもけして振り向かない、と謳われているのです。御存じでしたか?
 それとも…、亡きラスラ殿下を偲んで、そうされているのでしょうか』

『どちらでも結構よ。政略結婚相手も愛人も、今のところ募集しておりませんから。…さあ、用が済んだのならお帰りになって。貴国には書簡で正式にお断りをいれておきます。  多忙な身ですので、貴方との会談に割ける時間はとうに終わっておりますのよ』

 木で鼻を括ったような態度のアーシェに対し、青年は笑みを深くしてこう言った。

『じゃあまた明日、同じ時間にお邪魔するね!お仕事がんばってねアーシェ!』

『は…?なんでそんな話になるの!?お国に帰りなさいッ!!あと呼び捨てを許した覚えはありません!』

『いやー、何の成果も得られませんでしたー、なんて言って帰国したら、処刑待ったなしなんだよね。実は崖っぷちなんだ、俺』

 いきなり砕けた口調で声を上げて笑いだした青年を、狂人を見たかの如く強張った表情で凝視するアーシェ。
 その利き手にはメイスが握られていた。
 愛用の斧と迷ったが、応接間で惨劇を繰り広げるわけにはいかないので、比較的穏便なチョイスだ。先ほど取り乱したアーシェを控えの間へ押し込んだ侍従は心労のあまり中座して戻ってこなかったので、この空間にはアーシェの蛮勇を止める根性を持つ側仕えはいなかった。青年の随身は這う這うのていで応接間から脱出を図っている。
 貴賓の嗜みとして武器を佩かず丸腰の青年は生命の危機一歩手前で踏みとどまっているわけだが、彼は己の家来が主人を置いて逃げ出すのを待っていましたとばかり身を乗り出した。

『こんな小国が、アルケイディアとロザリアを押しのけて、ダルマスカに政略結婚を持ちかけるなんて、噴飯ものの話だよね。そこをわかってるからこその愛人商売なわけだ。狡すっからいだろう?業突く張りの野心家のくせに根は小心者なんだよ。…これを考えついたのは国王陛下、つまり俺の親父だ』

『急に真顔でなにを…』

『あの随身はうちの国王陛下から雇われた俺への監視、要するに貴国へ放たれたスパイだ。…三下だけどね。
 ていよく退場してもらうまで詳しい話はできない。機会を待っていたんだ。
 挑発に乗ってくれるかどうかは賭けだったが、勝算はあったよ。高潔な君が俺みたいな無礼者を黙って見過ごすはずがない。
 まさか鈍器がくるとは予想しなかったけど、必ず抜くと思っていたよ、救国の"烈"女』

『……その渾名はやめて』

『ごめんごめん!でも、素敵な異名じゃないか!俺としては聖女より烈女が好み……、って、やめて!頭狙わないで!』

『かち割られたくなかったら、さっさと本題を話しなさい』

『近いうちに兄貴たちが下剋上するんだってさ。
 俺は権勢欲かけらもないし、蚊帳の外なんだけど、それでも内乱が始まってしまったら、俺だって継承権を持つ一人として命を狙われかねない。
 見ての通り、剣を振るうより筆を走らせて生きてきたものでね。罷り間違えばたちまちあの世行きだ』

『嫌な予感がするわ。やはり聞き終わる前に陥没させて野に放るべき…』

『国許が落ち着くまで俺をここに置いてくれないかな愛人兼お友達候補としてッ!!』

『はああああああ!?冗談でしょう!?結局、私の愛人になりたいのに変わりないじゃない!この長話、意味あった!?しかも、お国の政変から逃れたい一心で、あわよくば命乞いの対価として愛人商売を…、って人を馬鹿にするのも大概にしなさいッ!本気で潰すわよ!!』

『執拗に頭狙うのやめて!最後まで話を聞いてくれ!貴国に損ばかりさせるつもりでここへ来たわけじゃないんだ!』

『…どういう風の吹き回し?アルケイディアとの戦争で敗戦して以降、貴方のお国とは有益なお付き合いができていた記憶がないのだけれど。このダルマスカに貴方の面倒を見てもいいと思わせるほどの提案が貴国にはあるとでも?』

『国を出る前、兄貴たちと話をつけてきた。うちが東方貿易と紡績産業でそこそこ栄えているのは知っているだろう?その基幹産業の技術供与を一部解禁する権利だけは本国からもぎ取って来たんだ。ダルマスカ織の職人が後継者不足で悩んでいて、舶来品に市場が圧迫されているのは調査済みだ。だったら問題を解決するのに、俺の協力は役立つはずだ!』

『話を聞きましょう。どうぞおかけになって』

『………。君のそういう合理主義なとこ好きになりそう』

『奇遇ですね。私も貴方の出方次第では貴方を嫌いでなくなりそうです』




 初対面が初対面なだけに、アーシェと青年の関係は遠慮のないものだ。
 こうして彼が『無礼』にも女王陛下の私室のひとつへ招きもなく入り込む時、それは『随身』の監視の目から逃れてひと息吐きたい時である。

「で?そろそろ俺のこと愛人にしたいくらい『嫌いでなくなりそう』?」

「これで何度目の問答になるのかしらね。答えは変わりません。お こ と わ り し ま す」

「お堅いなあ…。でも、ダルマスカ王朝は古来より一夫多妻だ。後宮が廃れたのは先王陛下が崩御なされてからだと聞いた。君の代で復活してもいいんじゃないか?なんなら俺の兄弟の一人、二人、お好みの者を斡旋してあげ……、ないですスミマセンごめんなさい頭狙わないで」

「まったく…、これだから王子だの皇子だのは面倒な…。なにを言われようと私は一夫一妻を貫きます」

 そういう伝統を持つ国だからと言って「英雄色を好む」のノリで救国の聖女が男を何人も奥に囲っているのは醜聞にしかならない。馬鹿げた提案をする青年を睨みつけると、彼は肩を聳やかして見せた。

「わかった。後宮は一先ずおいておくとしても、だ。君には後継ぎがいない。いつか誰かを選んで、血筋を残す使命がある」

「父上が後顧を憂えて励んでくださったお陰で落とし胤には事欠かなくてよ。よく教育して最も相応しい者を私の後継として選出します。誰を選んだとしても遠くはあれどダルマスカ王家の血です」

 淀みなく答えるアーシェの手元を、青年は膝をついて覗き込む。
 なにか言い返してくるかと思いきや、彼はアーシェの答えで満足したのかどうかそれきり押し黙ってしまった。
 アーシェの手でクッションに生まれ変わろうとしている布は、青年の協力で生産拠点と流通経路を確保できた布地だ。まだまだ市場では価値を上げられない。けれど、アーシェの手によく馴染むこれが、ゆくゆくはダルマスカ織と並んで王国の名産になるであろう、と確信していた。
 彼が王宮に来てからと言うもの、一時期のアーシェはストレスのあまりクッション製造機になってしまったので、それが図らずも品質向上へのサンプルとして役立ったのだ。
 思いがけず長い付き合いになりつつある青年だが、アーシェは口で言うほど彼を嫌いではない。むしろ新たな国益を生む援けをしてくれたことに感謝と厚意を抱いているくらいだ。けれど…、

「アルケイディアのラーサー皇子が成人した暁には…、などとご本人の知らないところで周りが話をすすめてきたり、ロザリアのアルシド殿はあのお人柄だからどこまで本気か全部冗談なのか掴めないけれど、友好の証として嫁して参ろうだなんて言いだすし、貴方が愛人商売を持ちかける前から私を…ダルマスカを巡る水面下の駆け引きは、枚挙の遑がないほどでした。
 落ち延びた王族の末、解放軍の旗頭として生きていた頃、ずっと傍で支えてくれた愛していたかもしれない人を喪ったし、落魄の身で彷徨い荒れ果てた心を同じ苦しみを分かち合うことで掬ってくれた少年を愛しみたく思ったこともある。
 そして、彼がひき会わせてくれた無頼漢に恋のようなものをしたこともあったわ。
 これでも恋多き女王なのよ、私は。…だけど、誰も彼もラスラを愛するより深くは愛せない。そしてきっと、ラスラが愛してくれたより深く私を愛してくれる者は現われない」

 足元で転がるクッションを玩んでいた青年は、アーシェの告白を聞いて「愛に深い浅いは無粋じゃないか?」と混ぜっ返した。

「君の口から男の影を意識させられると、なんだかちょっと妬けるね」

「心にもないことを言わないように。
 私とてこんなふうに過去を告白するつもりはありませんでした。貴方が今日はいつになくしつこいからですよ」

「そりゃ、しつこくするよ。そのためにダルマスカへ来たんだから。
 ……まあ、俺にも君と似たような経験はある、けどさ…。
 君は純粋すぎるし、硬質すぎる。いつか俺よりも心ない無礼者に害されてぽっきり折れる日がきそうで怖いよ」

「折られる前に頭蓋骨を陥没させるか、胴体から首をおさらばさせるからご心配なく」

「いやいや、今は物理的な害についてのことじゃなくて、心情についての話だったじゃないか。
 なにかにつけて俺の頭を目がけてターゲットリンク飛ばすのやめてくれないか…!ほ、ほら、物騒な話をしてるから縫い目が粗くなってるよ?」

 指摘されて改めて手元を見ると、なるほど一昨日縫った跡よりも乱れている。言われるまで気付かなかった失態に唸って糸を引き抜こうかと思ったが、途中で抜いてしまうとそれこそ縫い目の粗が目立つ。
 手を差し出され、請われるままにまだ針と糸のついた布を渡すと、器用に飾紐を避けて引きつった糸をピッピッと指で擦る。所々縮んでいた縫い目は綺麗に整えられて手元に戻ってきた。

「相変わらず器用だこと」

「まあね。現場を知っていたら利になることも多いから。この程度、こなせなければ紡績産業の技術供与でダルマスカと取引をしようなんて考えない」

「……。悪かったわね、ぶきっちょで。もういいでしょう。後は私がやります」

 青年はそれには困ったように笑って答えずに、再び針を進めるアーシェの手元を見下ろした。穏やかな面差しだった。この口の悪い軽薄で腹黒な青年は、しょっちゅう鈍器で頭を狙ってくる烈女を相手に、どうして愛人商売を諦めないのだろうか。

「ひと針ひと針、慎重にね」
『ひと針ひと針、大事にね』

 小さな独白に懐かしい声が重なって瞠目する。
 ひとりで何でもしよう、と思ったのはごく最近のことだった。旅の空の下、最初は靴紐だって自分で結べなかった。いつだったか、そう、砂漠で。
 ウォースラに結ばせたのをヴァンにからかわれたからだったか。それとも、ウォースラを喪って初めて、自分ひとりの足で立たなければならなくなった私を『姫』と扱うことなく、『王位を継ぐ者』として扱った…、甘えを一切許さなかったバッシュの眼差しに、背中を押されてからか。
 ほんのお飾り程度の刺繍しか知らない私の手を取って、教えたパンネロの手は私よりも小さいのにしっかりしていた。あの子はもう私に譲ってくれた、籐の籠編みの小箱のことなど忘れてしまったかしら。
 指貫もせずに誤って針で指を突いて、血の滲んだ私の指を何の衒いも無くパクリと咥えた貴女に、驚いた私は咄嗟に勢いよく振り払ってしまって。格闘のアンバーを付けたままだったから、お鼻が真っ赤になってしまったのよね、確か。あの時はずいぶんフランに睨まれた。でも普段は彼女が貴女を構いつけてばかりだし、少しくらい私に譲ってくれてもよかったのでは。

「以前、似たようなことを言われたことがあるわ」

「…君に貴族の手習い以上の実際的な縫物を手ほどきした師からの言葉かな?」

「ええ。聴く気があるのなら、お話しましょう」

「いいね。男の話よりは可愛い女の子が出てくるお話のほうが好い」

「今の話の流れでなぜ女の子だとわかったの」

「だって男の話をするときのアーシェは、嶮しい顔だったからね。眉間に皺寄ってたよ。だけど縫物のお師匠さんのことを話すときは機嫌が好さそうだもの」

「くッ…!以後、気をつけます。それで?茶々を入れずに聴くの?聴かないの?」

「聴きます聴きます!だから頭狙うのやめて!」

 布地の繕う針を止めず、まずなにから話そうかと思い出を吟味する。
 …数日後にはいよいよ戴冠式。神の前で女王として誓約する。父が背負い、兄が受け継ぐはずだった王位。それを背負って生きる。王女としての務めの延長線上にあった今迄とこれからとでは、まったく違う新たな道。新たなダルマスカ王国。
 こうやって過ぎ去った日々を懐かしむことは少なくなるだろう。だが悲しむことはない。

「語れないことも多いけれど、そうね…。私たちの出会いは…」

 ダルマスカ織の縦糸と横糸が重ね合わせて編まれるように、人の縁はけして途切れることはないのだから。














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2011.05.01(再掲) 2016.12.15(改稿)


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