ラバナスタの大聖堂から街中に鳴り響くヴェスパー・ベルも、地下から耳にするのは遠くささやかな余韻だけ。
居住区として使われていた時にはなるだけ地上の光を入れようと改築されていたものだが、本来の倉庫としての役目を取り戻した今は灯火も数えるほどの薄暗く冷えた佇まい。
酔狂はどこにでもいるもので、市街地南部には未だに地上へ移住せずに旧ダウンタウンに留まっている者がいる。ここはそうした者達や、繁華を嫌って一人で飲みたい者達のための店だ。
無理矢理押し込められた地下市街などとうに遺棄されたものだとばかり思っていたが。
「なかなかいい雰囲気だな」
バルフレアが言えば、フランも頷く。
「そうね」
貯蔵庫を改造して作られたのか、愛想の欠片も無い小さな酒場。だが、陽の射さない地下にあっても、影でも咲く閑雅な花卉を壇にしつらえてあるのは無愛想な中にも愛嬌を感じさせた。
剥げかけたモルタル製の柱には「準備中」の掛札があったが二人は構わず戸を押す。
微かな開閉を知らせる鈴の音が鳴り、人影疎らな店内に来客を告げる。とても準備中とは思えない静かに整った店内、奥のテーブルに一人で腰掛けている女の姿を見た。
後ろからでも解かる、真っ直ぐ伸ばした姿勢のいい背筋。
「よう、女王様」
「…ごきげんよう。貴方は一所に留まることを知らないのね、行方を掴むのに苦労したわ。今度はどの辺を飛んでたの」
「ラグラット海洋まで出て、ちょいと腕試しをね」
腕試し、と聞いて女が瞠目する。
「まさか『滄溟の大滝』に挑んだとか言わないでしょうね?」
「あそこからの直滑空は度胸試し腕試しには丁度いいのよ」
「フラン、貴女までさらりと何をド変態なこと言ってるの。正気?下手をすれば死ぬわよ」
ラグラット海洋のアミルカル大海溝は別名『滄溟の大滝』と呼ばれ、大航海時代を経て今も空賊達の腕を競う修練の場だった。冥界の淵まで続いているとも言われる深い滝は海にぽっかりと口を開いた暗闇。底の滝壺など見たものはいないと言われている。
滝底に堕ちたらまず生きて帰って来られない。そういう場所なのだ。
ただでさえ難所の多い海域で、よりにもよってそんな危険地帯へ突っ込んだくせに「まあ、たまには飛びにくい場所で飛んでおかないと腕が鈍るから」などと平気な顔をしている二人は、女王からしてみれば立派に変態だった。気は確かか、と聞きたくもなる。
「変態とはご挨拶だな」
片眉をはね上げて肩を竦めた男は、カウンターで黙々とグラスを拭いていたマスターを振り返ってロゼワインと辛口のラムを注文する。
淡く透き通り甘酸っぱい芳香を放つワインとバルフレアとはあまりにも合致しなくて首を傾げると、男は女の目の前にそれを置いた。自分は相棒と同じく琥珀色のラムを傾ける。
色合いは美しいが、甘ったるそうな匂いには閉口した。けれど、口をつけないのは些か行儀が悪い。顔に出したつもりは無かったのに、苦笑され「食わず嫌いは損だ。騙されたと思って験してみな」と勧められた。
意を決して一口含む。
甘やかな中にも舌を刺す酸味と軽快な渋味を感じる後口。正直に驚きの色を浮かべたネイビーブルーが、余韻を楽しんで細められる。伏目がちになると、睫毛が影をおとした頬は少し痩せたようで。
ただでさえ細い頤が頼りなく見えた。
「で?女王様がわざわざそのド変態の空賊を酒場に呼びつけた理由を聞こうか」
ほんとは理由云々なんてどうでもいいくせに。
ひたと女に視線を据えたままゆっくりグラスを傾ける。喉を滑り落ちて胃の腑を焼く、心地いい刺激に微かに潤んだヘイゼルグリーンの瞳にはどこを探しても冷たさの影は無い。要は「仕方ないな」というスタンスを崩したくないだけだ。彼は何を言われてもとっくに請ける気でいるのだろう。
意地っ張りは不治の病ね。
無表情に呆れたフランは、黙って二人の会話を聞いていた。
「貴方達も知っての通り、ラバナスタ近郊のみならずダルマスカ王領は全域に渡って近年稀に見る異常気象が続いている。最初は暁の断片が複合崩壊をおこして暴走したことと天陽の繭の解放が原因でミストの均衡が崩れたせいだと思ったわ。けれど…」
「それにしては規模が大きすぎる。夜光の砕片が暴発した死都ナブディスの例を見れば明らかだな」
ナブディス、と聞いて表情を曇らせた女王だったが、バルフレアの言葉に頷き返した。
空域・海域の急速なヤクト化やら、まったくミストの乱れの無かったはずの地域から突如として高濃度ミストが検出されたりやら…尋常ではない。
破魔石の含蓄する膨大なミストの解放が何らかの引き金になっていることは確かだが、この急激な気候の変容はそれだけでは説明がつかない。気候だけではなく、ギーザ草原を抜けたオズモーネ平原では地下から突然噴き出した濃密なミストのせいで地形そのものが変質してしまった地域すらあると聞く。
そう、問題は地下なのだ。
何かが、地中深くにある何かが。
漸く大戦の痛みを乗り越えようとしている王国の足元を揺るがしている。
「女王様、天変地異は何もダルマスカの足元にのみ起きているわけでは無いわ」
「え…?」
フランの言葉にアーシェは目を瞠った。
端々に焦心苦慮の滲む女王の言葉を聞いていた空賊は、思いがけず自らが未だ把握しきれていない情報を耳にして戸惑う彼女を片手で制し、手持ちの情報を掻い摘んで説明した。
「ダルマスカ地方やケルオン大陸のバンクール地方だけじゃない。
バレンティア大陸のアルケイディス地方は他の他の二大陸に比べれば気候も波が無いしミストも安定してるのが売りの穀倉地帯だが、最近じゃあ気流が乱れて曇天が続き作物は不作。
陸路はもとからあまり使われちゃいなかったが、今は空路もところどころヤクト化して飛びにくくなってる」
「オーダリア大陸のロザリア地方では肥沃な平地が突然岩盤ごと陥没、アルケイディス地方とは逆に旱魃に見舞われているそうよ。詳しい資料は後から貴女の枕元に送るわ」
商売柄、こういう事情には通じているだろうとは思っていたけれど。
眼を瞠った女王にバルフレアは「ヤクト対応型の飛空石ってのは便利だな」と笑って見せた。自分の眼で見て来た光景だから、今言った情報は確かだと言いたいらしい。
シュトラールに装填するのをあれだけ嫌がっていたというのに。ヤクト対応型の飛空石、と聞いてほんの少し遠くの過去に思いを馳せる。
呼び出したものの彼らを頼るべきか否か迷っていた心が据わった。
「時局を鑑みれば今、調査組織を組む余裕はこの国には…私には、無い。
だから被害の著しいギーザ草原以南からオズモーネ平原の地下、つまりゼルテニアン洞窟の調査を依頼したいの。貴方たちに」
本職でないことは百も承知、頼る相手を間違っているだろうと言われることも、それでも彼らに依頼しようと思った理由は。シュトラールがヤクトを飛ぶことのできる飛空艇であることや、ヴィエラであるフランの感知能力があればきっと地下で起こっているミストの濃化現象を突き止めることができるだろうだとか、重ねる言葉はいろいろある。
が、黙ってバルフレアを見つめた女王が口にしたのはたった一言だった。
「お願い」
真っ直ぐに射抜かれて一瞬だけ息を詰まらせ、次いで漏らした溜息に肩を下げる。
グラスを空けるふりをして斜め下に視線を逸らしたバルフレアを横目で一瞥したフランは、やれやれ、とゆるく首を振った。
「お願い、ねぇ…。
またえらく可愛い口説き文句を言えるようになったもんだな、アーシェ。
あんたのプライドは千尋の谷より深く、高嶺の凌雲より高いと思っていたが」
揶揄されればムッと眉間に皺を寄せ早速つっかかるだろうと踏んでいたが、アーシェはバルフレアのわざとらしい軽薄な物言いにも澄ましたまま笑って見せた。
「プライドとは恥を知るものだと私は学んだ」
突き通せば角が立ち、捨ててしまえば嘲笑われ、飲み込むには辛すぎる。かくあるべき、と誇りを持って生きることを強要され、それを何の疑問も無く享受してきた私達だけれど。それが私達の本当に守りたい本分であるかどうか、自身を支えるプライドと言えるかどうか。
貴方も私も旅の中で、一緒に歩いてきた轍の中で、答えを見たはずだ。
「…必要経費と報酬は別個に頂くぞ」
首の後ろを揉んでどこか不貞腐れたように言うと、アーシェは懐から異様に膨らんだ布袋を出した。
「勿論よ。さし当たってこれを軍資金にして頂戴」
「…こりゃ前金にしちゃ額がでかくねぇか?」
「ええ。空賊バルフレアが1Gの得にもならないことで動いてくれるとは端っから思ってなかったけれど、かと言って相場というのもあてにはできないと考えてね。もしかの場合に備えて多めに」
どっさりとした重みの袋の中には札束が詰まっている。
金に糸目はつけないにしても程があるだろうこれだからセレブは…、と目が口ほどに物を言っている二人に対して女王は「報酬は同盟締結一周年祝賀祭の終日に渡すわ。勿論、忍んで来てくれるでしょう?」と優雅に、そして有無を言わさぬ押しの強さで微笑んで見せた。
招待状の電文は届いていたものの返事をせずスルーしようと決め込んでいたのは先刻承知の上だったようだ。義賊ぶったところで所詮やくざものの空賊が王家と繋がりを持つのは互いの為にならない云々と言う言い訳は女王様には通じないらしい。
炯々と光る双眸が『 絶 対 に 逃 が さ ん 』と語っている。
バルフレアは背中に嫌な汗を感じながら両手を挙げてホールドアップした。
完敗、降参。
「女王様の"お願い"とあらば喜んで」
命令などされれば聞く気は無かったが、知己のたっての願いとあらば動かざるおえない。
権力が、玉座が彼女の手に身体に馴染んだなら、そこで廃れて終わるかもしれないと思っていた繋がりが、今も一年前と変わらず在ったことを心の奥で喜んでいた。
その芝居がかった言葉を受けて、アーシェはやっと心からの朗らかな笑みを二人に寄越した。













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2011.05.01(再掲)


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