久しぶりに御用聞きに顔を出した店から、バザーに出す青果店の荷下ろしの手伝いを頼まれた。ラバナスタは今日も快晴の青空と燦燦と照りつける太陽が眩しい。市に立つ商人もそれを買いに訪れる市民や観光客たちも同じように額に汗している。
バザーは今も昔も変わらず活気に満ちて、ここにいるだけで気分が高揚してくるようだった。
穏やかな風景だった。
たとえその街頭の端々に黒鉄の鎧を纏う帝国兵の姿があっても。
こうして発散の場を与えられているからか、それとも侵略を受けた当時からすればだいぶ緩くなった搾取や凌虐のためか…。属国扱いはされていても、ランディスのように酷薄に虐げられることは無かったダルマスカは、微温湯のような偽りの平穏に飼い慣らされている。
もともとは開放的で自立精神に富んだダルマスカの民達は、温和を装う侵略者の手に全てを委ね…もう過去を忘れようとしているのだろうか。
忘れたくない、忘れられない、乗り越えたい、先へ進みたい。
その思いが少女の華奢な背中を押していた。
嘆く時も逃げる時も、もう終り。いつでも隣に居た少年と共に、手を携えて既に踏み越えた。
…だから、前を見詰める。先へと歩みを進める。
そう言えば覚悟を決めておっかなびっくり、でも気がつけばそこに居たふうを装って旅に同行することにした時も。ヴァンに「一緒に行こう?」と言われて、腹を括ってその手を取った出立の日も。
こんな晴天のとびきり暑い日だった、とぼんやり思うパンネロ。
その隣で、ううん、と微かに勘気を帯びた唸り声がして振り向く。
「…もー…、それじゃ駄目ですって。私、やりますから」
貸してください、と手を出すとそれまで長い爪に苦心しながら果物を並べていた美しい手から籠を託された。ついでのように「うまくいかないものね」と言うぼやきが零れる。
色褪せた天幕を張る露店には瑞々しい野菜と果物と可愛い少女…、ととびきり美人なヴィエラが立っていた。
ふわり、と癖のある豪奢な銀糸に滑らかな褐色の肌、紅茶色の少々キツめな瞳と端整な面差し。
いつものように流麗な線を描く鎧を纏い、自分の胸ほどしかない少女の隣に陣取って行く人行く人の視線を欲しい侭にしている。
店の品物を見るよりもフランに視線が釘付けになっている彼らを見て苦笑しながら、ついさっきまで抱えていた居た堪れなくて仕方なかった気分にケリをつける。





「え!?あの、本当に本気ですか?…マジで、ついて来るんですか??」
仲間と一時別れて店の御用聞きに行ってくる、と言ったパンネロはフランがそ知らぬ顔で自分の後ろにくっついて来るのに気付いて仰天した。
フランさん、バルフレアさんはどうしちゃったんですか。
「ええ。マジよ。…何か差し障りが?」
目で訴えたパンネロの言葉がわからなかったでもあるまいに、フランに平然と返されて逆に閉口してしまう。差し障りは無い。フランが居たら売り物が腐るとかそんな異常現象が起きるわけじゃなし、別に一緒に居たいなら居てくれてけっこうだなのだが。
気まずい…。
居ればそこそこ喋る王女と違ってフランは何というか…、空気からして常人離れしていて…特に才色兼備なわけでも何でもない凡庸な自分は何をどう対応していいかわからなくなる。
おまけに将軍顔負けに無口で鉄面皮だ。…本質的には優しい人だと知っている。
でも今は本質がどうこう、という壮大かつスペクタクルな視点でものを見ている場合では無く。こんな小さくて狭い店の中で売り子として二人並ぶ羽目になっても間が持つのか、と言う他愛なくも俗っぽい視点でものを見るべきだ。
「いいんですか?バルフレアさんは…」
一緒に居なくても…?さっき、明らかに放って行かれた感じでムスッとしてましたよ?
俗っぽさの欠片も見当たらない泰然自若としたフランの隣で、妙に緊張しながらそう問いかけると彼女はこれにもあっさり「いいのよ」だけで済ませた。
「貴女こそいいの?坊やはダウンタウンに降りるようだけど…?」
鉄砲玉のようにおたから袋を抱えて行ってしまった…、後を追わなくても?
どうもヴァンと自分は他のメンバーから「二人纏めてセット」のように見られているらしい。
どこへ行っても何を言っても不測の事態を巻き起こすヴァンだから、お目付け役の自分はどうしてもくっついて未然に防ぐか…しでかした後のフォローに回るため。
一概にそうでない、とは言い切れないけれど……まるでヴァンのオマケみたいに言われれば腹が立つ。
クランで知り合ったハンターに「オマケの黄色いの」扱いされた時には、マジ切れして脛を踵で思い切り蹴り上げてやった。腹いせにボケッとしていたヴァンの頬っぺたも抓ってやった。
こんなパンネロの気持ちに、機微に聡いフランが察しがつかないはずはない。
知っていてからかうような視線で言われて少々ムカッとしながらも、パンネロはこれには澄まして答えた。
「私とヴァンはセットじゃないですからっ!」
「では、私がバルフレアといつでも一緒でなくてもいいじゃない?」
そんなこんなで結局、押し問答に折れたパンネロはいつになくご機嫌のフランと共に露店で客引きをしているわけである。
最初はどうなることかと思ったが、まあ、なるようになるものだ。
忙しなく行き交う人々を眺めながパンネロはふと微笑んだ。
今頃、カイツと一緒にネズミ退治を終えたヴァンは砂海亭で、フランに放って行かれて酒を片手にくだを巻いてるバルフレアのかっこうの憂さ晴らしの餌食にされているんだろう。
多分ヴァンは「何だよ絡むなよ、アル中!」と言って彼につっかかって行き、バルフレアは表向き煩そうに実は満更でもない気分で少年の果敢な挑戦を受けて立つ。
おそらく「不遜な口は十年早いぞ糞ガキ」とか言ってヴァンの髪をぐしゃぐしゃに掻きまわして、ふくれっ面のヴァンに「フソンて何だよ!?」とアホ満開なことを言われて呆れるはずだ。
それでバッシュに懇切丁寧に教えてもらうヴァンを見て、拗ねたバルフレアは屈折した愛情のこもったヘッドロックやネックハンギングツリーで少年に構いつけるんだろう。
見かねて止めるバッシュとバルフレアがヴァンの頭上で冷戦してる間に、殿下に見つかって3人纏めてこっ酷く叱られる。
……容易に想像できてしまう。
砂海亭の二階で正座させられて怒られる男3人を想像した所でパンネロは、はぁ…、と深い溜息を吐いた。
本当に不思議なパーティーだ。
自分もその一角を担っておきながら、他人事のようにそう思う。
溜息に気付いたフランに片方の眉を、くい、と上げて首を傾げられ、思わず吹き出すパンネロ。だって、今の仕草、バルフレアさんにそっくり。
考えていたことを話すと、フランは何とも言えない複雑そうな苦笑をした後しみじみと言った。
「貴女は客観的にものを見る眼に長けているのね……当事者であるはずなのに」
その代わりに主観を少々、犠牲にしているのかしら…?
時折、フランの言葉はまるで謎かけのようだ。きょとん、としたパンネロにそれ以上答えを求めることはなく。フランははぐらかすように少女の頭を撫でた。





フランのお陰でか露店は盛況で、店主から手間賃の他に旬の果物を沢山もらってしまった。
こんなにあってもとても2、3日では食べきれないし…腐らせる前に砂糖に漬けて菓子にしようか、それともダウンタウンの子供達への差し入れにしようか。
馨しい匂いを放つ林檎を見ながら思案していると、不意に後ろからドンと押された。
ヨロけた拍子に転げ落ちそうになる林檎に「あ、あ、あ…っ」と声を漏らすと、隣からすいと伸びた長い手が難なく林檎を元の位置に戻した。
「気をつけなさい、坊や」
フランに注意された男の子は眼をまん丸にして彼女を見上げ硬直している。
謝るつもりだったのか口を開いたまま、でも言葉にならずにはくはくしているのを見てパンネロは苦笑した。男の子に林檎を一つ、渡して言う。
「お姉ちゃんもボーっとしてたから、おあいこね。でも、ちゃんと前を見て歩かなきゃ駄目よ?」
「あ…、う、うん、ごめんなさいっ」
林檎とパンネロの顔を交互に見てやっと緊張を解き「ありがとう!」とお礼を言って、また噴水広場で遊ぶ少年達の中に混じって行った。
「私はそんなに怖い大人かしらね」
憮然としたぼやきを聞いてコッソリ隣を伺うと、フランは無表情に眼を眇めていた。けれど、その唇がほんの少しだけツンと尖っている。拗ねているのだと知ってパンネロは呆気に取られた。
「…意外なものを見た、という顔ね」
「あ、すみません…。怖いっていうんじゃ無いですけど、何だかフランさんって…いつも一歩引いた所から見ているっていうか、達観してるようなフシがあると思ってたから…」
しどろもどろに言い訳しながら俯いた少女の頭上から、ふ、と溜息が聞こえた。
もしかして傷付けてしまっただろうか、とはらはらしていると。
「その性質も私の一部だと自覚しているから否定はしないけれど。…貴女に言われるとは思わなかったわ」
「え…??」
それってどういう意味ですか?
聞こうと彼女を見上げてみたが、フランは物憂げな顔のまま噴水広場に視線を向けていた。
つられるようにパンネロも水際で遊ぶ子供達を見る。
ついさっきぶつかって来た男の子も少年達に混じって水と戯れていた。楽しげに遊びに夢中になっている子供たちから少し離れた日陰に林檎を持った女の人……多分、あの子の母親だ。
噴水で遊んでいる男の子は時折、そちらを振り返る。母親の眼差しが向けられているのを確認しようとするように。
その眼差しを見つけられないと不安になり、見つけ出すと安心して再び水遊びに夢中になって…。微笑ましい光景のはずなのに、なぜか胸がぎゅうっと苦しくなった。パンネロは両手をグッと握り締める。
自分も彼らと同じようにここで遊んでいた。
傍らにはヴァンが居てレックスが居て、たまに兄達も混じって……離れた場所にはヴァンと自分の両親が。やがて無心に水際で戯れていた時は終り、レックスの優しい手も兄達の少し荒っぽい温かな手も…いつも背中を押してくれた、包んでくれた両親の眼差しも喪った。
それでも傍らのヴァンの手はいつでも、今も、私の隣にあって。
お互いの眼差しはお互いに。
旅に出る時も一緒に、覚悟を決める時も共に、歩みを重ねて同じ轍跡を刻んで。
でも、いつからだろう、私とヴァンの歩みはずれだした。
以前は何も考えなくても彼の思考も行動も察しがついたし、気持ちの変化もちゃんと知ることができた。後追いなんかしなくてよかった。歩みも心もちゃんと添わせていられたのに。
今は、必死に追いかけないと、追いつけなくなった。
ヴァンは何を考えているんだろう、どんな気持ちでいるんだろう、何をしたいんだろう、どこを目指して歩いているんだろう。何もかも、慌ててついて行かないと……置いていかれる。
それもこれも、ヴァンがパンネロに眼差しを向けることが無くなったからだ。
あの子供達と同じように、誰もが誰かの眼差しを必要としている。それはバルフレアがフランに寄せる信頼であり、フランが彼に見せる鏡のような静かな瞳であり、アーシェが同志や亡き騎士たちに誓う含蓄の思いであり、バッシュの多くの悔恨と苦悩を踏み越えてなお拉がれることのない至心である。
他の人の想いはこんなに簡単に察することができるのに。
一番近くにいるはずのヴァンの瞳だけが、どこに向いているのか掴めないのだ。
私に眼差しを投げてくれないから、察することすらできない。
「パンネロ…」
名前を呼ばれてハッとする。
いけない。…今日は何で、こう余計なことばかり考えて。
「す、すみません、またボーっとしちゃって…」
取り繕おうとする少女の肩をフランは柔らかく、しかししっかりと掴んだ。
「駄目よ。考えなさい」
見下げる幼けないパンネロの顔が強張る。
まるで心を読まれるのを恐れるかのように、硬く握り締められた手で胸を押さえつけている。
どうしようか…、とずっと思っていた。諭すべきだろうか、と。
旅を共にするようになってから、割と早い段階で彼女がヒュムにしては卓越して「眼が冴えている」ことには気付いていた。その鋭さが内面では無く、常に外へ……特に傍らの少年へ向けられていたことも。
王女と将軍と空賊と貧民…見事にばらばらのパーティーは当面の目的が一致しているだけで、その実、思考はそれぞれが明後日の方向を向いている。彼らを語れ、と言われた時にさらさらと答えられるのは自分と……パンネロだけだろう。
奇しくもついさっき「いつも一歩引いた所から見ている、達観してる」と言ったパンネロの言葉はそっくりそのまま、フランがパンネロに対して感じていることだった。
自分のことは後回しにして他人を思いやる。しかしそれは自己犠牲的な、下手をすれば偽善とも思えるやり方ではなく。その冴えた瞳も、彼女の心根もあくまで明鏡止水だった。
冷静で一見して温厚に見えるけれど、さり気無く文武両道。パーティーの食事や繕い物の面倒まで見るなど器用で細やか。それでいて謙虚で、幼馴染の天然素材とは違って一歩下がってでしゃばらない。なのにたまに発言する言葉は胸に響くほど重く柔らかい。能ある鷹は爪を隠す…、と言うか。
本当にヒュムにしては至純で且つしっかりした良い娘だ。
だが、些か良すぎて…今それが彼女自身を苦しめている。
「貴女は今、とても不安定だわ。
それを考えないようにして前に進むのも一つの手だけれど、あまり得策とは言えない。
余計に苦しみが伸びるだけよ、同じ苦しいのなら向き合ってとことんまで考えた方が…そして踏み越えてしまった方が楽だし建設的だわ」
珍しく嶮しい表情をしたフランを見上げて、心臓がどきどきと嫌な早鐘を打つのを感じる。
この人は、怖い。
どうしてわかってしまうんだろう。
自分は何一つ落ち度を晒してはいないはず、それなのにまるで心を読んだように。
ハニーブラウンの大きな瞳が恐れに震えるのを、フランは哀しげに見詰めた。こんな風に見上げられるのは辛かった。
が、今は些細なことで傷ついている場合ではない。
彼女が打ち拉がれてしまう前に、どうにか諭してやらなければ。
よくよく考えれば旅の仲間だからとて、ここまでフランが心を砕く必要は無いのだが…今のフランにはそれが最重要課題のように思えていた。
「貴女は…あの幼子と同じく眼差しを求めている。
ヒュムが…いえ、私たち人間全てが眼差しを探り求める時。それは私たちが自信を失ったり、苦難に直面し…それを乗り越えなくてはならない時。
頼るのではなく、ただ傍らにいてくれるだけでいい。ただその眼差しを自分に投げてくれるだけでいい。…私たちは、どこか心の深淵でありのままの自分に対する無条件な肯定を必要としている」
パンネロはもう怯えていなかった。
静かな波一つ立たない湖のような視線をフランに向けていた。そこに逃げも恐れも存在しないことにフランはホッとする。
「向けられる眼差しでヴァンの心を推し量る、彼の瞳の中に自分が置かれていることで自分の位置を確認する。そうして安堵を得て、貴女は自分の生に没頭することができるのね。
でも、それだけでは駄目なのよパンネロ。
貴女は聡い、そして賢い。だから私が言うまでも無くわかっているでしょう」
「…その性質も私の一部だと自覚しているから否定はしません。でも、私のことは、私でちゃんと考えますから」
貴女の手を取らなくても、私はちゃんと考えられます。
半ば意地のようなものだった。けれど、これ以上フランに迷惑をかけたくないし…彼女がこんな些事で、私のせいで煩わしい思いをしているのを見るのは居た堪れない。
美しくて強い彼女には、こんなことで愁眉を寄せて欲しくなかった。
「ちゃんとヴァンに…皆に追いついて行きますから、心配しないで下さい。
さ、もう行きましょう?そろそろお昼になっちゃう。みんな砂海亭で待ちくたびれてますよ!」
努めて朗らかに振舞ったつもりだったが、それを見た紅茶色の瞳には冷たい光が過ぎった。
苛立ちと悲哀のこもった、どこか傷ついた切ない面差しは少しだけ彼女を幼く見せた。
驚いて瞠目したパンネロに気付くと、すっ、と表情を消していつもと変わらない静然とした顔で肩から手を引く。
フランの体温はけして高くない。むしろ低いくらいで。なのに、肩に感じていた掌が失せると途端に寒く感じた。ラバナスタはいつでも暑いのに肌寒く感じた。
ひやり、と心臓の裏を舐める冷たさに震える。
「貴女が、望むなら…」
ひっそりと囁くような静かな声は、雑踏の中でも真っ直ぐにパンネロの耳に届く。
そしてようやく思い知る。
もう既に自分が彼女を思い煩わせ、相棒を袖にしてまで気にかけて…。
…今、傷付けてしまったことに。
黙ってそっと重ねられた手を振り払ってしまったことに。
銀糸の長い髪が、さら、と揺れてゆっくり踵が返される。すらりとした長身の後姿が背を向けて歩き去って行く。パンネロはそれをだた見送ることしかできなかった。
「フラン」
か細い声がパンネロの口から零れた。
この距離ならその小さな呼び声もフランの耳に届いていたはずだ。
けれど、彼女は振り返らない。もう再び少女を振り返ることはしなかった。
「フラン…っ」
思考を拒否するような頭は上手く働いてくれない。
このままじゃいけないのに、それはわかるのに、彼女に何か言わなければ…。
追いかけたい、追いかけて、追いついて、ごめんなさいって言って、それからちゃんと話す。…話すって何を?私はもう大丈夫ですから心配しないでって?きちんと自分で自分の気持ちは整理しますから安心してくださいって?
どれもこれも違う気がした。言うべき言葉は違う所にある、でもそれが何なのかわからない。
地に足は縫い止められ、言葉は喘ぐようにただ名前を呼ぶばかり。
去って行くフランを見つめていたパンネロの頬を雫が、すー…、と流れ落ちる。
瑞々しく真っ赤な林檎にあたって砕ける雫。
竦んだように立ち尽くす少女が、その涙に気付いたのは美しい背中が雑踏の中に消えて、ずいぶん経った後のことだった。













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2011.05.01(再掲)


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