『将軍、ここは俺がなんとかします!先へ行ってください!』

『はやく!』








「バッシュ、ここは俺がなんとかするから!先へ行け!はやく!」


前衛に出ていた少年が放った言葉に、俺の斜め前で剣を振るっていたバッシュの背中が強張った。切先が揺れた。奴らしからぬ動揺だった。
訝る視界に躍り込んだ蛮族の刀を躱し、振り上げた大剣で弾き飛ばし、振りかぶって兜を叩き割る。朋友の背中へと視線を戻した時にはもう既に勝敗は決していた。
斃れ伏したウルタンエンサの群れからおたからを回収する少年の数歩先で、バッシュはいつも通り危なげなく最期の一匹を仕留めていた。その背中からは先ほど見た違和感はきれいに消えており、「リーダーを務めるのにも慣れてきたな、ヴァン」と少年を労う姿も普段通りだった。
照れ臭そうに笑いながら鼻を擦るヴァンと穏やかさすら安らいだ笑みを浮かべるバッシュの姿を眺めながら、己の眉間に皺が寄るのを感じる。
釈然としなかった。だが、少年に悟らせないさり気無さでこちらを一瞥してきたバッシュの双眸に圧されて、仕方無しに目を背ける。


何故、貴様はそのように在るのだ。バッシュ。
そしてあの少年も。何故お前は、俺に何も問わぬ。何も問わず、今ここに在る俺だけを見て、心許すことが出来る、笑うことが出来る。


砂の上で跳ねるように弾んで歩く少年の影と、それを追う朋友の影までも見るに堪えず後ろを振り返った。
リザーブメンバーである少女が追い越しざまに俺の手を覗き込み、「うわー…重そうな剣。近くで見るとやっぱり大きいですねえ」と微笑んだ。そのまま先を行く彼らの元に走るかと思いきや、俺の横に並んで歩き始める。
追いついた殿下から目配せを受け、「…この大剣ならばバッシュも持てるはずだ」と少女に返事を返した。小父様すごぉい、と嬌声が上がる。
時折、背後から空賊のものと思われる強い視線に晒される。だが、何も無い。
何か重い枷が何重にも巻かれる気がした。一歩歩くごとに、深く身に食い込む。
照りつける日差しの中、蜃気楼に歪む少年とバッシュの後姿は現実感の無い幻のようだった。いや俺こそが幻か。誠を無くし、忠は罅割れ、仮初の姿で殿下のお傍に仕えている。
バッシュ、貴様が生きて今もそのように在ると、もっと早くに知っていたら…。
ふと利き手が涼やかになり、見ると淡い光が傷を癒していた。跡形も無くなった傷。こちらを見上げて「もう大丈夫ですよ」と微笑する娘は、恐々と、しかし優しい仕草で古傷だらけの俺の指を撫でた。
そして、疲労の滲む俯きがちな殿下に他愛ない会話を振りながら、二人連れ立って俺を追い越して行く。
暫し茫洋とした。癒され許された利き手を見下ろして、俺は己の中に巣食うある甘美な希望がことここに至って頭を擡げてきているを悟った。
裁かれたいのだと。
だが、頭を振ってその誘惑を追い払う。
…バッシュ、我が朋友であり我が理想であった騎士よ。
俺の選んだ正義を見た時、貴様はどうする。どう在ろうとする。





昼間バッシュの周りをぴよぴよ騒がしくしている少年は、夜目には色を失って見えるプラチナゴールドと相俟って、口を開かず黙っているとハッとするほどレックスの面影が濃い。ただ振り向いてこちらを見れば、思慮深げで大人しかったレックスとは対照的に、きかん気の強い闊達そうな面差しをしている。
焚火の中から焦げた草の塊が出てきて、何かと思って凝視していると、それを上だけ毟って開いた。中から出てきたのは煮えたキノコや木の実。こちらに差し出し「これ夜食。あんたも今日はアーシェがはやばや寝入っちゃったから、ろくに食べて無いだろ」と話しかけてきただけで、以降は沈黙して、焚火を挟んで向かい側に座っている。
粗食ではあったが独特の香辛料の匂いと塩味はラバナスタの味だった。
口を衝いて出ただけの何の感慨も無い、うまい、と言う言葉だけでまた笑った。屈託の無い笑顔が、何故そう在ることが出来るのかと、俺を暗澹たる思いの底に突き落とす。愚にもつかない思索に耽ってしまう。…何故、昼間名も知らぬあの娘は俺の手を取ったのだ。震えるほど怯えていただろうに。
手持ち無沙汰に薪を棒で突付くヴァンを横目に、俺はバッシュの硬く嶮しい表情を思い出していた。
天幕を張る際の魔物避けを手分けして行っていた際の問答は、今更と言えば今更のことだった。
俺は後ろめたさと仄暗い愉悦が綯い交ぜになった妙な気分で「そうだ。俺が直々にレックスの尋問を指示した」と吐き捨てた。
言ったはずだ。俺はこの2年、独りで殿下をお守りしてきたと。
誰も信じることなく己だけを恃みに。殿下の足元を汚す影ひとつ許さず、御身のいたるところに気を配り、爪の先すら欠けることの無いよう……それでいて解放軍の旗頭としてけして弱くない戦士としての教育を施さなければならなかった。
その為に邪魔となる者、騒擾を招く災禍の芽、すべて薙ぎ払ってきたのだ。
過酷な尋問の末にも、レックスの証言は覆らなかった。帝国側の言い分を認めざる終えなくなった。その時の俺には、若い見習い騎士の一命を贄に捧げ、反逆者は全て葬られたとするほか、疑心暗鬼に染まった騎士団を纏め上げる術は無かった。
選べる道など無かった。
…解放軍が散り散りに分裂すれば殿下はどうなる。
誰があの方の盾となり剣となりあの方の同志となり支えて行くと言うのだ。
俺は殿下の一の家臣と自任しているが、それでも一人では足らないのだ。多くの…できるだけ多くの…、それこそアーシェ様を奮い立たせ背中を押すだけの民を得なければならなかったのだ。
つらつらと言い訳じみた言葉は言う気も無かったが、バッシュは言わせる前に「すまなかった」と俺の口を封じた。
そんなバッシュを振り切るようにして殿下の元へ…あの方のお傍へ逃げ込んだ。
俺を恃みにしてくださる殿下は、俺がお傍に参じると安堵を露わに示される。それに救われた。
たとえ、縋られている側の己が実際は殿下という存在を…この方だけを依拠として縋っている側であると自覚し、その浅ましさに自己嫌悪しながらでも。
「あのさ…」
無意識に深く黙考していたらしい。
声をかけられ顔を向けた。少年は膝を抱えて爪先同士をカツカツと鳴らしていた。言いよどんでいるようだった。
規則正しい小さな硬い音が止み「最近ってーか、ずっとだけど…なんで俺がバッシュと話してる時そんなに睨むわけ?」と聞かれた。
気付かれていたかと内心舌打ちする。
「睨んではおらん」
「嘘。あの目つきはぜってー睨んでたね。眉間に皺寄ってた」
「…ふん。何故そうも俺の反応を気にかけるか知らんが、…本当なら睨むのも眉間に皺を寄せるのも、立場はお前がそぐわしいのではないのか」
「えっ?俺ぇ?」
爪先を見ていたヴァンが驚いた顔をこちらに向ける。
視線をうろうろさせて頻りと思い当たることは無いか考えている様子だったが、俺が業を煮やして「反逆者の汚名を着せられていたバッシュと、ダルマスカ騎士団であり解放軍参謀である俺と。反逆者の弟としてラバナスタに暮らしていたお前は思うところが無いのかと聞いている」と言うと彷徨っていた視線がぴたりと止まった。
表情が硬くなる。徐々に潮が引くようにゆっくりと。心なしか気配までも褪せた。
ああ、その顔だ。その絶望を知る蒼褪めた月の面影。
帝国から首と手足に鎖を繋がれたまま下げ渡されたレックスと、ヴァンの顔が重なった。
これまでに戦争で俺が失った幾多の命の面影が、ここに在るようだった。
「バッシュは兄さんが信じたバッシュ将軍だった。真実を教えてくれた。
俺はわけもわからず奪われるばかりで、わからないからバッシュを憎んだ。怨んだ。でももう解かったんだ。解かっちゃったら、…もう憎めないよ」
訥々と呟いたヴァンは、そこで少し笑って「俺、兄さんが信じたバッシュを、今は俺も信じることができて、なんかそれって、嬉しいんだ」と。
少年がぎこちなくだが笑顔を取り戻しかけるのを見て、もう俺は我慢ならなかった。
「お前が、…お前達が、反逆者の縁者としてお前達に苦渋を強いた俺を恨まぬのも、忌避せぬのも、バッシュの仲間であるからか」
「うー…、うん。それはデカいかな。バッシュのダチなら…」
言いかけた言葉は聞きたくなかった。
俺は知らず俯いていた顔を上げ、今までけして真正面からは見なかった少年を正視した。
気圧されたふうに顎を引いたヴァンに告げる。
「俺が指示した尋問によってレックスが廃人になった。それでもか」
バチッと音を立てて爆ぜ、火の粉が舞い上がり、崩れた薪が薪の炎を揺らめかせた。
見開かれ凍りついたヴァンの双眸に同じ炎が燃え立っていた。
揺らぐ炎が怒りであれ悲しみであれ、何でもいい。初めて己に注がれた少年の、昂ぶって青みを増していく青灰色の瞳の中に探していた。







目を逸らさない少年から、俺も目を逸らさなかった。掠れた声で「なんで…」と呟いた少年が、知らなかった知りたかったであろうレックスの姿を語った。
俺は同じように己の中で蓋をしたはずの、甘い欲望が膨れ上がり高揚していくのを感じていた。
同時に、酷く身体も心も萎えていた。…疲れていた。
俺はダルマスカが在ればいい、アーシェ様が御無事でいてくだされば…どんな形であれ王統を継ぐ者として尊ばれ、その血を絶やさずダルマスカを見守っていてくださるなら、それ以上を望まない。
「…俺の腕だけで支えられる方であったなら」
だが、殿下は名も亡き騎士達の血の道を歩かれる。
死んでいった者達の為、その血で敷かれた道を踏むと…。
騎士団の剣を持って顕れた少年。バッシュを牢獄から連れ出してきた少年。
レックスが皹を入れ、その死によって歪ながら纏まらざるおえなかった騎士団を、ヴァンは剣一本で団結させた。いや、正確には剣二本。…俺の目には少年と並び立つバッシュの姿もまた、失いかけて取り戻した騎士の魂と思えた。
心ならず漏れた吐露をどう捉えたか、少年は突然沈黙を破り口火を切った。
「兄さんはいつも同じ時間に話し出した。俺やパンネロの声は聞こえなくても、幻覚の中の尋問官の声だけは聞こえてたんだ」
そうだな。レックスは何度も答えた。俺が聞きたくない事実を、信じたくない事実を。裏切り者の誹りを受けて、それでも語り続けた。皆、レックスの言葉を最後までは聞こうとしなかった。
「だけどナルビナの真実を話し尽くした後、真っ青になりながら『違う』って言ってた。何が違うのかあの頃はわからなかったけど、今ならわかる。…だから俺は、あんなに恨んでたバッシュを許した。
俺はバッシュの『真実』がレックスの言う真実とは違って、レックスが心を壊しても信じてたバッシュ将軍は帰ってきてくれたんだって…わかったんだ」
でも、とヴァンは低い声で呟いた。
真っ直ぐに俺を見つめる少年の面差しが、瞬間くしゃっと顰められた。
泣き出しそうな表情を、一文字に引き結んだ唇で戒めて。
「帝国から身柄を渡された時、兄さんはまだ正気に近かったんだろ?辛うじて受け答えできたって言うんなら、なんで最初に『違う』って言った時に信じてくれなかったんだ。なんですぐ自白剤なんか使ったんだよ。
信じられなくても、なんでもっと兄さんのこと…」
砂の波打つ静かな音だけが支配する夜更け、天幕を気にして高まりかけた声を必死に堪えて詰る声が、一際震えて「あんたは…あんただって兄さんを裏切ったんじゃないか。裏切って生贄にしたんだ。王様が殺されたことも、バッシュが背反したかもしれないことも、悪いことは全部兄さんのせいにして」と吐き捨てた。
少年の言葉の一つ一つに斬られた傷口から、どろどろと膿が垂れ流れ、俺は深く溜息を吐いた。抱えきれない闇がほんの少しだけ軽くなった気がした。
これは自裁に相当する、今この瞬間だけ俺に仮初に与えられたカタストロフ。退廃的な癒しだ。溢れる寸前で決壊を免れ、罅割れた斬り口から流れて行く。
長い沈黙が互いの間に横たわり、夜がいやに長く思えた。俺も、ヴァンも、呼吸すら忘れたように濃密な沈黙の中に沈んでいた。
小さくなった焚火の火に薪を継ぎ足し、ぶわっと勢いを増した炎と火の粉が、膝を抱えて縮こまっていた少年の姿を揺らめかせた。
「…パンネロには言うなよ」
「お前だけが知っていればいいことだ」
言うつもりは毛頭無いと知って、少年は睨み合うようにしていた視線を外し空を仰いだ。
つられて見上げた先に星空があった。圧倒される数え切れない星星が俺達を見下ろしていた。燦燦と降り頻り、命を焦がす砂漠の太陽と同じだけ…いやそれ以上の白く蒼褪めた星の光が刃となって降り注いでくる幻想を見る。身体の裡を突き刺し、血管の隅々まで透かすようだった。
ぱたり、と後ろに凭れ少年は、体重を砂岩に預けたまま頭の後ろに手を組む。
「…俺覚えてたよ。俺に兄さんの形見を渡してくれたのあんただったろ。ほかは全部捨てられたのに。…兄さんの友達も従軍してたけど、何も返ってこなかった。俺達、流行病で亡くなった両親の遺品も持ってなかった。それでなくとも貧乏で、戦争からこっちずっと奪われてばかりで、身一つ以外はろくに物持ってなくて…、だから形見があるのはありがたかった」
瞠目する俺を片手でひらひらとおざなりに制した少年の横顔からは、裏切り者と俺を罵った時の激情は失せていた。
「あーあ、ったく、わかったよ。わかった。あんたのことは恨む。でも…。……ああああもう!今だけ嫌いだ!アーシェもあんたも!疲れるし俺はもう手近な目標を恨み辛みの避雷針にするのは止めたんだから、明日はもう知らねえからな!
アーシェは自分の足が何を踏み締めて歩いて来たか知ってても知らねえんだ。だからあんななんだ。あんたが独りでいろいろ背負って辛い思いしてるのもわかったふうでわかってないんだ。血の道じゃないか…何が国を救うだよ…解放軍だよ……。くそっ…」
舌を噛みそうな早口で始まった文句は、最後は苦々しげな口調で尻窄みに少年の口の中に消えた。そして、俺の喉が痞えている何かが言葉として形を取る前に勢いをつけて身体を起こし、立ち上がる。
砂を払い、うーん、と伸びをして、溜息を一つ。
座したまま沈黙を守る俺を、幾星霜の星影を背負って立つ少年は、何の怒りも悲しみも哀れみも無い顔で見下ろした。
今もこの身体を刺し貫く白い星の光の如く。
灰色に沈んだと思っていた青灰色の瞳、青みを取り戻した目交いには何を思い、何を考えているのか。睨み合った時には確かに繋がっていた思考が、もはや俺には斟酌できなかった。
何故。何故、お前は…、憎むと言いながらお前もまたバッシュと同じく俺を許すと言うのか。
お前の兄の心にとどめを刺した俺を、何故…。
「どうせ戻らない」
見透かされたかと思った。だが、少年は俺に向かってと言うより己に向けて、その言葉を呟いていた。
…どうせ戻らない、失った命は失われたままだ。死者が奪っていった魂の欠片は、どうしたって残された者の元へは還らない。何も取りこぼさず抱えて背負って行けたらどんなに良かっただろう。
「あのさ、これからはバッシュも居るんだし、大丈夫だろ。
あんた独りで背負う必要ないよ。アーシェにも自分の靴紐くらい自分で結ぶとこからいろいろ頑張ってもらってさ。…あれ最初に見たとき俺、爆笑しちゃったよ。パンネロもあれは無いってさ」
軽口を言った口元は、ハハハと笑う。
頤のあたりに漂う強張りは隠せないが、それでも俺の前で笑うのだ。
「…ラバナスタで空を見上げるたびに、廂に掛かった帝国の赤と黒が遮るのが嫌だった。あれを取っ払ってくれるために、こんな砂漠の果てで砂埃まみれになって這いずり廻ってんだろ?
前のダルマスカを…、兄さんが生きてた頃のダルマスカを、あんた達が取り返してくれるってんなら…、俺はあんたを憎む気持ちはここに置いて行く。
もう俺はあんたが過去に兄さんにしたことを振り返らないし、あんたもレックスを振り返らなくていい。だから、見せてくれよ。アーシェとバッシュとあんたとで見せてくれ、還してくれ、俺達のダルマスカを」
俺そろそろバルフレアと交代だから、とヴァンは呼び止める間もなく、さっと踵を返した。その腕を取ろうと伸ばしかけた手を見下ろし、拳を握る。言う言葉など、もう喉の奥で潰れて意味を成さなくなった。
とう起き出して来ていたらしい空賊と少年が、天幕の入り口でなにやら言い合っていた。
些細な諍いを楽しむ余裕のある口達者な悪い大人に言い負かされ、少年は膨れっ面で天幕の中に入る。
入れ違いにこちらへやってきた男は俺を見るなり訝しげに眉を顰めたが、いくら呆けていても内心を悟らせてやるほど間抜けではない。
置いて行く、と少年が言った過去は少年にとって重いものだったに違いない。
だが迷いの無い軽い足取りで天幕へ戻って行ったヴァンの背中は、先の見えない未来に不安も絶望も諦念も抱いていない。迷いを消して前へと進む心が、この2年ヴァンを縛り付けていた過去を振り切らせた。
小さな背中だ。だと言うのに、俺はその背中に朋友の背中を重ねて見ていた。



*****



貴様の正義と俺の正義、救国の聖女の選ぶ未来の礎はどちらか。
答えは最初から決まっていたのかもしれない。
折れた剣が手から滑り落ち、膝を折る。霞む視線の中、見上げた嘗ての朋友の顔は責めるでも嘆くでもなく、ただ静に己を責めていた。俺では無く、俺にこの選択をさせた己自身を。
広大な砂漠を越え、王墓で創祖レイスウォールの遺産…暁の断片を得て、いつからお前が俺の二心を悟っていたのか…。魔人を倒し従えて、神授の破魔石に繋がる扉を開けた。あの時、ラミナス陛下の幻を見て立ち尽くした俺を訝った時か。
「俺はもうお仕えできん。…殿下をたのむ――…」
朦朧とする意識で、確かにバッシュが俺の意を受け取って頷いたのを聞いた。
走り去る足音。殿下のものと思われる、最後まで俺を見届けていた視線が途切れた。
涙を堪える代わりのように俺を詰られた殿下のお声が、耳に蘇る。
決別の覚悟の元、ここへ留まることを無言で示した俺に情けをかけなかった。きっと何も知らぬ王女であれば、俺に手を伸ばしただろう…それだけの関係を築いてきた自負はある。
だが戦士として指導者として成長なされた殿下は、俺の最後の矜持を酌んでくださった。
見たか、バッシュ…。これが俺がお守りし導いてきた今のアーシェ様だ。
誇らしく、同時にもうお傍に居られないことが情けなく悲しかった。…俺は…俺は…貴女を冠する祖国でなければ…、衛星国となろうと属国と呼ばれようと、アーシェ・バナルガン・ダルマスカの統べるダルマスカ王国でなければ嫌だった。
…俺はもう貴女が傷つき血を流すのを…、それが貴女の足元に伸びる血の道に交わるのを、優しく純心で気高き王女であった貴女が修羅となって行くのを止めたかった。

ああ、そうか…、俺は貴女を……。




尋常ではない力に圧し折れ一瞬で原型を留めぬ姿になった柱の一部が、己に身の上に降ってくるのを見上げ、哂った。破魔石に呼ばれぬ者、触れる資格すら持たぬ者が、創祖の末たる我が主を差し置いて神授の力を手にしようとは愚かな。
殿下の御御足を汚す騎士の血が俺で最後であればいい、と願う。
バッシュ、お前は殿下のお心を見誤まるな。死ぬな。必ず生きて最後までお仕えしろ。
殿下を…アーシェ様を、頼む。













end.
2011.11.07


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