独りになりたい、と。
思い詰めた表情で一言だけ言われた殿下に、かけられる言葉を見つけられなかった。
2年前、アルケイディア帝国のダルマスカ侵攻より以前の、私のよく知る…知っていると思っていた嫋やかで無垢な姫はすでに無く。芒洋として眼差しを翳らせる殿下は、意気沮喪とした様子で俯いていたが、それでも絶望を前にしてもただ挫けて蹲るだけの軟な方ではなかった。
「考えなくては…。これからのことを」
その時間を私に頂戴、と語る殿下の背を見送って。
何一つかける言葉を持たない己を歯痒く思い、また屈辱を強いられる中で曲がらず拉がれず王族の責務をまっとうしようとする殿下の姿勢を心強くも感じた。主が誇らしかった。
…ウォースラ、お前が守り忠誠を尽くした殿下はこんなにも立派に使命を果たそうとしておられる。なぜ、この場にお前が居ない。幼い頃から殿下に仕え精忠無二であったお前ならば…お前こそが、傍らで支えて差し上げるに相応しい騎士であっただろう。
戦場で共に駆けた日々が懐かしい。ダルマスカのため、至誠を持って衷心を尽くし血を持って武を修め智を持って忠孝を納める。あの時、私とお前の国を思う心は一つだった。
巡洋艦シヴァが墜落し、お前と袂を別った時。改めて己の不甲斐無さに憤ったが、私は騎士の誓約を忘れてはいない。必ず、お前に代わって殿下をお支えすると誓ったと言うのに、私は己の選択が正しいのか迷っている。行くべきか行かぬべきか。お前ならば迷いはしなかっただろう。だが私はお前と同じようには殿下をお支えするわけにはいかんのだ。
鬱屈とした思惟に囚われ、宛がわれた天幕へと向かう仲間から遅れて歩いていた私は、不意に横合いから手を引かれた。
黙って隣を歩いていたヴァンだった。
「バッシュ、俺ちょっとアーシェんとこ行ってくる」
どことなく緊張の面持ちで言う少年に、私は困惑して首を振った。
人払いを命じられている以上、旅の仲間といえど通すわけにはいかない。
「ヴァン…今夜は堪えてくれ。殿下は今…」
「うん。わかってる。でも今じゃないと駄目なんだ」
いつになく強情だった。
二人で話すとき私が殿下に心を砕いている様を見せようものなら、拗ねてふくれるのが常だと言うのに。今日は全く素振りを見せない。
硬い表情のまま「行く」と言って聞かなかった。
だが今日ばかりは頼みを聞いてやれない。殿下ご自身のこともだが…その…只でさえ気が立っ…気落ちされている所にヴァンが現れたら拙いことになる恐れがある。多大にある。
悪くすれば平手では済まない。拳で殴られる。
痛い目に合うかもしれないと解かっていて放っておけるわけもなく、私達はしばらく押し問答していたが、やがて癇癪を起したヴァンに「それなら草葉の陰からコソっと覗いてろよ」と吐き捨てられてしまった。
一瞬、言葉を失った隙にヴァンはフンッとばかりに顔を背けて勝手に桟橋へと駆けて行ってしまう。
最悪な方向へ向かう事態に天を仰ぎつつも、仕方なくヴァンの後を追って桟橋へ向かった私は目に飛び込んできた光景に思わず足を止めた。足音を殺してサササッ…と壁沿いに移動してきた少女は、桟橋に近い潜むのにもってこいの木陰にシュッと飛び込み屈みこんだ。
「パンネロ…」
君はいったい何をして…、言いかけた言葉は「シーっ!」と無声音で怒鳴る(彼女はとても器用だ)仕草に黙らされる。
機敏な動きで捕獲され道連れに木陰に引きずり込まれて、瞠目する私の口を掌でしっかと塞ぎ「声出しちゃ駄目ですよ!?」と厳重に言い付けられた。私が頷くとやっと安心したのか、ホッと溜息を吐いて視線を桟橋に向ける。手持ち無沙汰に桟橋をブラつくヴァンがここからだとよく確認できる。
黙っていろと言われた以上、ピリピリした様子でヴァンを見ているパンネロに話しかけることも出来ないので、不本意ながら覗きに同乗する形になった。
「平手、痛かったですか?」
唐突に話しかけられて首を傾げると、パンネロは不安そうな心配そうな真剣な眼差しでこちらを見た。
「王女様の平手!!ヴァンから聞いてます。叩かれたんですよね?」
……そういうことは武士の情けで隠しておいてくれないかヴァン。
今さら飾ったところで何もならないのも事実だが。
「いや、痛いということは…」
「少しも?」
「多少は…」
「多少ですか?本当に?」
「………」
「大丈夫です。私の胸の内だけに秘めておきます。約束します」
任せてください。私、口堅いですから。と言外に目で語るパンネロ。
16歳の少女に気圧されるとは些か情けないが…、勢いに飲まれて告白する。
「………………かなり、痛かった」
「ですよね!?…ああ、やっぱり一人で行かせるんじゃ無かった。
どうしよう、ボコられちゃうかもヴァン…。ザグナルみたいにメキョッて頭蓋骨陥没なんかしちゃったらヤバイよ〜…」
メキョッ…とは、また恐ろしい擬音だ。
どこがどうメキョッとなったのかは平原を踏破した際の殿下の勇猛果敢なお姿を見れば一目瞭然だが。まさか素手でああはなるまい。
はらはら…っと湧き上がった焦燥感に胸を焼かれて、咄嗟に腰に装備したままのアイテムを確認してしまう。気付けばパンネロも全く同じ動作をしており、二人して何となく乾いた笑みを交し合った。
「…有事の際は私が殿下を。その隙に君はヴァンに駆けつけてやってくれ」
「…了解です」
まるで夜戦のさなかの如き殺伐とした雰囲気が漂う中、私達は背後のはるか後ろに感じるガリフの戦士達の物言いたげな視線を無視して張り込んでいた。
ほどなく、殿下がヴァンに気付きそのまま二人で桟橋の上からから見渡す平原を眺めるのが見えた。
恐るべき事態は起こらず、淡々と穏やかに話は進んで行く。
覗き…張り込みを開始してしばらく。
殿下とヴァンの会話を静かに聞いていたパンネロが、姿勢を崩して座り込んだ。それと一緒に漏れたかすかな笑みに、桟橋の二人から視線を外す。
膝を抱えて体育座りをして、少女が私を見返してくる。
「私、あなたが怖かったです。つい最近まで」
ごめんなさい、と謝る彼女に少し躊躇ったが軽く頭を撫でた。
謝る必要など無い。礼を言わねばならないのは私の方だと言うのに。
知っていた。
彼女がヴァンと一緒になって私に構い付けていた時も、どこか緊張していたこと。腕に触れてくる少女の手がいつも一瞬だけ強張ることも。
「ヴァンほど単純に割り切れなくて。レックスを殺したのはあなたじゃないけど、でも…」
「手を下した者の兄、だ」
「はい…」
「詰ってもかまわない。むしろそうして欲しい」
君達は優しすぎる。
殿下にしろ、私にしろ…国の荒廃を許した者に対して余りにも寛容だ。
私は裏切り者の謗りを受けることを甘受する覚悟がある。ダルマスカ再興のために汚辱に塗れることも厭いはしない。…だが受け入れられることに対する用意は無かった。
許されると思ってはいなかったから。
ヴァンがラバナスタで「もうわかってる」と言って笑ったのと同じ笑みをパンネロも浮かべて首を横に振った。柔らかなその表情は、今の私には眩しく凝った心の澱を溶かしてくれるようだった。
同時に胸を突く刃の鋭さにも感じられる。
糾弾だけが責め苦ではないのだ。こんなにも笑顔が痛く感じられるとは思わなかった。
「私、とろいって言うか…時間がかかるタイプなんです、いろいろ考えるのに。でも今はヴァンと同じ気持ち。目の前の都合の良い標的に苛々をぶつけて…問題をすり替えるのは嫌です。もう悲しいことに蓋はしません。もうビクビクするだけにはしません」
さ、何とかなったみたいだし。私はもう寝まーす。
おどけた風を装ってそっと立ち上がったパンネロを、私は咄嗟に呼び止めた。
「騎士団に君の兄弟が居たと聞いた」
これを言えば彼女は苦しむ、と脳裏では警鐘が鳴っていたのに言わずにはいられなかった。
彼女はほんの少し痛ましい表情を見せたが、やはりそれでも笑うのだった。
「兄さん達は自分で自分の未来を決めた。ミゲロさんに私の身柄を預けて敗残したダルマスカの兵達の為に隠れる場所を提供した両親もそう。だから、私も…」
そしてヴァンも今、何かを決断したのだろう。
過去と向き合い、未来を模索する覚悟を。
天幕へと歩き去っていくパンネロの背中を見送った私は、桟橋の上で笑いさざめくヴァンと殿下を見続けていた。



天幕へ向かう殿下を見送っていた少年が、くるりと踵を返してこちらへ向かってくるのが見えた。私はもう気配を隠してはいなかったから、おそらく張り込みに気付いていたのだろう。
木陰から姿を見せた私にヴァンは呆れ半分、苛立ち半分といった表情を見せた。わざと突っ張った言い方をしてくる彼に、パンネロを引き合いに出して言い訳する気も無いので、困惑した表情のまま「すまない」と返す。
挙句、彼の自尊心を傷つけるような不用意な行動ですっかり怒らせてしまった。
すぐに手を離したが、ヴァンは寸前に見せていた怒りを早々に引っ込めてバツの悪そうな顔をして溜息を吐いた。
「あのさ…ちょっと、いい?」
ヴァンは無自覚なのだろう、決まって甘えかかる前に見せる機嫌を伺うような心細そうな顔。優しさを請う表情。…これは生来のものではないだろう。おそらく、翼下に庇われるべき雛の時期から自立せざるおえなかった彼の寂しさ。
そんな顔をしなくていい。
私の腕も胸も勿論、背中も君を拒絶しはしない。
どんどん人気の無い飼料蔵の辺りへと入っていくヴァンに促されるままついて行く。
放すまいというようにしがみつく少年の腕の温かさに、溜息を溢しかけて歯を食いしばった。
彼とのことで一度も嫌だと感じたことは無かった。
合意とは言い難かった最初でさえも、監禁され衰えていた肉体には苦痛もあったが、私にはそれにも勝り精神的に得るものがあった。
軽く裾を掴むだけで背中に懐くに留めている彼は、私とのことをどう思っているのだろうか。私を許したことで関係は解消されるものと思っていたが、彼は今でも私とこういうことをするのを止める気配は無い。…一度だけ「なぜだ」と聞いたことがあった。彼は首を傾げて「駄目なのか?」と聞き返して、私はその答えに詰まった。その時、漸く私は私が駄目だと言えば退いて二度と触れてこないだろう彼の温もりを惜しんでいる自分に気がついた。
彼は私に与えられた希望だ。彼が私の偽りの死を暴き、憎み、打擲し、許してくれた。
時折私の隣で悪夢に魘されるヴァンの口から彼の兄の名前が紡がれることが無くなれば、私はいよいよ彼を手放さなくてはならない。だがせめてその日が来るまで…、彼が私の背中に背負われたレックスの影を掻き毟り縋りつかずに安らかに夜明けを迎えることができる日までは…。
「残念だ。このままでは君の頭を撫でられない」
胴に巻きついた腕を無理に引き剥がし、攫うように激しく抱いてしまいたかった。抱き締めたかった。
鬱勃と胸を浸す仄暗い欲望を宥め賺し、このままことを進めるべきかこのままでいるべきか迷っているらしいヴァンの手に手を重ねた。
ひく、と胴にしがみついた腕が震えて、腹筋の辺りを探っていた手が硬直する。背中に感じる重みが増した。直後、あーあ…、と不貞腐れた独り言を呟いて溜息を吐く。
「肩を抱き返してやることもできないし」
シャツの裾を弄るヴァンの手の上から自分の指を絡め、そのまま肌の上をすべらせるようにして胸元に誘い込むと、肩甲骨の下あたりに額を押し付けられた。
私は彼が私の上着の襟を少し開いて直接胸に頬を押し当てるのを好むのを知っている。
「背中をたたいてもあげられないな」
…早くせがんでくれないだろうか。
ううう、とくぐもった呻き声を上げて、ヴァンはガバッと身を離す。私が振り返る前に突進する勢いで胸に飛び込んできた。
真夜中だというのに日向の匂いのする髪を掻き撫で、前言通りヴァンの望む…いや私の欲するように抱擁する。冷えた外気の中で胸元にかかるヴァンの吐息は熱く、擽ったい。
思わず笑うと、意味を取り違えたのか少年は拗ねたように鼻を鳴らした。
最初は不貞腐れているのか意地を張っているのか硬かった肢体が、重なった互いの熱にとけて徐々に柔らかくなる。
「…ありがとう」
気付けば礼を言っていた。
突然そんなことを言われてもヴァンには何のことだかわからないだろう。案の定、きょとんとした顔で私を見上げてくる。
さっき私の背中にグリグリと足当てた為に乱れた前髪をかき上げてやると、ヴァンは気持ち良さそうに目を細めた。
「私では殿下のお心を宥めて差し上げられなかっただろう」
この言葉でやっと会話まで聞かれていたのだと悟ったのか、ヴァンは居た堪れなそうに顔を顰めて「…そういうつもりじゃないよ」とそっぽを向いた。おそらくカッコ悪い所を見られた、とでも思っているのだろう。
「私は殿下が転ばれるたびに靴紐を結って差し上げるつもりは無いのだ」
驚いた表情にはありありと『あんた普段、殿下殿下って後ろついて回ってる癖に』と書かれていた。苦笑する。ウォースラを喪ってすぐのあの方から目を離すのは危険だと感じたから傍近く控えておらねばと判断したが、それはヴァンの目にはやっと振り向いてもらえるかもしれないご主人に取り縋る犬の姿と同様に見えていたらしい。
殿下はウォースラを喪ったことで解放軍との繋がりも断たれ、地下活動の要であるダウンタウンのダラン翁やその他の活動家との伝手も薄れて、初めて本当の意味で誰に頼ることもできない落魄の身へと窶されることになった。
御身大事に…、ウォースラがしてきたことと同じく、私が殿下をお支えすることは、結局彼が辿った轍を踏んでしまうことだ。殿下は彼が殿下と国の未来を慮るあまりに急いだ選択を蹴り、帝国に阿ることをよしとしなかった。彼の命の上に殿下が選び取られた道があったのなら、私は彼の死を無駄にする行いをしてはならない。
「転んでも…、何度転んでも自ずから起き上がって先を見据え、御決断頂きたいのだ。だから今この機会に安易にお慰めすることが殿下の御為になるかと踏み切れなかった」
危うく心の裡を吐露しかけ、言葉を濁してはぐらかした。顎の下を擽るふわふわと柔らかい金髪に鼻先を埋める。
殿下を験す真似をしている私を知れば、彼は失望するだろうか。
腹心の臣下を亡くし心の支えとしてきた破魔石の力さえ失って頽れる殿下を庇い労わるどころかなおも鍛えんとする私を。祖国を二度も喪う恐怖と、悲嘆に暮れる年若い王女を天秤にかける私を、その真っ直ぐな眼差しで斬りつけるだろうか。
「ふーん。あんた俺が思ってたより……」と言いかけたヴァンの言葉を聞きたくなくて、それでも離れがたく、寄り添った少年の身体をきつく抱きしめる。
「いいんじゃねえの?それでいいんだよ、たぶん」
「…そうか」
「たぶんね」
「……うむ」
とんとんと軽く叩く慰撫を繰り返し受けて溜息が出た。
こうして何度、許されたことか。私は彼と出逢って彼に救い出されて以来、ずっと甘えてばかりいる気がする。
…殿下はおそらく皇子の提案を飲まれるだろう。他に道は無く、私達にはその術に頼る他に手立ては無い。
苛烈を増すであろう旅路からヴァンとパンネロを遠ざけようと思わなくも無かった。だが彼らが彼らの意思で目的を持って同行すると言うのならば…止めることはできない。彼らは無辜の民に甘んじる道から踵を返し、私たちと同道することで真実を得る道を選択したのだ。
ヴァンをこれ以上の苦難に巻き込みたくない思いとは裏腹に、手放さずに済んで安堵してもいる己の身勝手さに軽く自嘲すると、腕の中で欠伸を噛み殺していたヴァンがこちらを見上げて首を傾げた。
「何でもない、さあそろそろ戻ろう」
眠たそうにしている癖に「えー、もう?」と不満気なヴァンを促し二人で天幕へと戻る。
君を失うことを恐れ、君の身を危険を晒すことも懼れている。と言ったら何と返されるだろうか。
ふざけるな舐めてんのか!?という所だろうか。
パンネロが豪語した通り、彼も彼女もとても逞しい。
「今日はさんざんだったけどさ、明日は良いことあるといいな」
光明の差しかかった前途を閉ざされた絶望をヴァンに「さんざんだったな」で片付けられて苦笑しながら寝床を整える。
藁を布で包んだだけの粗末な寝具に寝転がってすぐに寝息を立て始めた彼を見守りながら、彼の屈託の無い笑顔を思い出す。まだ少年の域を抜けきれない幼さを湛えている笑顔。が、その青灰色の瞳には柔靭な光が差していた。覚悟する者の眼差しだった。
「17…か」
ナルビナでみすみす死なせてしまった彼の兄も当時17歳だった。今の彼の様に覚悟を秘めた目をしていた。自分が初めて誓願を立て一人前の騎士として剣を賜った時。もう記憶の彼方でその清廉だったであろう志を思い出すことは出来ない。
ランディスが帝国に踏み拉かれ滅んだ日、私が生来信じてきた草原の民の古い神の名は永遠に削られ剣に誓った誓願は破られた。…騎士であった私は一度滅んだのだ。そして流れ着いたダルマスカでも王家への誓約は契ったが、二度と誓願を立てることは無かった。
しかし、今再び誓おう。
神にではなく、ダルマスカのためではなく、将軍としててはなく、騎士としてでもなく。
許された者として、その恩恵を与えた少年と少女のためにも。
私は戦う。













end
2011.05.01(再掲)


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