「あんた」
背後からかけられた苛立たしげな声に男が振り返ると、突然ポーションを投げつけられた。
まともに顔目掛けて飛んできたそれを反射的に避け、手で受け止める。
バルハイム地下道の古い坑道の途中でパーティーは短い休憩をとっていた。
バッテリーは今の所はミミックの襲撃を受けていないらしく、目減りの傾向は見られない。が、もうそろそろ新たなバッテリーを襲撃するミミックが現れてくる頃だろう。
手の中のポーションをまじまじと見つめ、男は貴重なアイテムを分け与える少年の背中を一瞥した。蒼く透き通るクリスタルの瓶を握り締める。
内心では裏切り者への義憤と兄の仇への怒りで煮えくり返っているだろうに、なぜかこの少年は今の様に私にもアイテムを提供してくるのだ。
戦闘中もどう見ても不慣れな戦いぶりであるのに、満足に身体を庇う装備も無く戦うバッシュが負傷すると必ず前に出て庇う仕草をする。
奥を偵察してくる、と言ったきり姿を見せないヴィエラの女戦士や、廃材に寄りかかってこちらを静観している空賊は「盾にする」と言うだけあって戦闘中も手を貸すことは一切無い。
不思議に思って隣に間隔をあけて座る少年の横顔を伺うが、仏頂面で睨み返され思わず、
「…すまない」
と謝っていた。
「さっさと回復しろよ。時間無いんだし」
「ああ」
これまでの戦闘で思いのほか消耗していたため、男は少年の行為を有り難く受け取ることにした。
ひと口ずつ含むごとに、疲労と細かな傷が癒えていくのを感じる。萎えて本来の力を失っていた身体の細胞一つ一つが、先を争って回復薬の薬効を貪るのがわかる。だらりと弛緩していた筋や皮膚にぴりぴりと刺激が奔り、一瓶を飲み干してしまうとやっと両の拳に力が漲った。
験すように何度か握りを確かめていると、それまでじっとこちらを見ていた少年の視線が逸れた。男は彼の神経に障らぬよう静かに、そっと表情を探る。
少年は擦過傷をこさえた膝小僧を舐めてペッと血を吐き出しているところだった。額にも頬にも同じような傷がある。ごそごそと荷を探ってポーションを取り出した少年は、自分の傷は顧みずのしのしとこちらに歩いて来るなり男の手から空の瓶を引っ手繰って、代わりに新しい瓶を押し付けた。何か言う前にプイッと顔を背けて踵を返してしまう。
頑なな背中は問答を許さない強硬な態度を表していて、男は黙って瓶を空けた。
HPが3分の2ほど回復した所で奥からヴィエラが戻ってきた。
「いるわ。奥に」
「ミミックだけか?」
「プリンも2、3匹ってとこかしら」
プリン、と聞いて踵の泥を落としていた空賊が舌打ちする。
「まーた粘液まみれか。これだから地下道ってヤツは…。嫌になるぜ」
肩を回して廃材から離れるとヴィエラと共にこちらを一瞥する。
おそらく何の装備も持たないお荷物が戦闘不能になった場合のことを思案しているのだろう。
フェニックスの羽は貴重だ。特にこの長い坑道の中では何が起こるか解からない。不測の事態に備えて無駄を省きたいのは察しがつく。
「…後から追いつく。私のことなら構わず先に…、…ッ!」
いきなり結構な強さで脛を蹴られた。
まだ舌に馴染んでいないらしい詠唱をつっかかり気味に何とか唱えた少年は、衰弱し肉が落ちていてもまだ自分よりは逞しい薄汚れた男の腕を乱暴に掴んでHPを全回復させた。
少年はただでさえ残り少ないMPを削り取られた疲労感とは全く別の、まるで体中を流れる血の巡りに泥が混じって手足を重く腐らせているかのような倦怠感と苛立ちを感じていた。男を睨みつけたまま溜息を吐き捨てる。
「『きみに真実を伝えるのが、私のつとめだな』って…あんた言ったよな」
「…ああ」
斜交いにまじわった視線は、男の方から逸らされることはまず無い。断罪を受け入れる瞳だ。こっちがぶつける感情を何もかも真正面から受け止める眼差しだ。
いつだって視線を逸らすのは俺の方からで…、押し負けた気がして一層腹が立つ。
唯一、生き残って帰って来たレックスが帝国の人間にどう扱われダルマスカの人間にどう迎えられたかお前にはわからないだろう。
信じていた上官に裏切られ、その弑逆の大罪を目の当たりにし、ぼろぼろに傷ついていたレックスの最後の矜持を踏み躙ったのは「何故お前だけが生きて戻った。お前も加担していたのでは無いのか」と言う同胞達からの猜疑の眼差しだった。
王宮の地下牢に軟禁され、聴取とは名ばかりの厳しい尋問を受ける毎日。バッシュの裏切りを信じたくない者達からも、バッシュの裏切りを真実と受け取り憤った者達からも、レックスは責め抜かれた。行き場の無い怒りの矛先を一身に受けて、やっとの思いでヴァンが彼の身柄を取り戻し施療院に引き取った時には、もうレックスの心は取り返しの無い程に砕けてしまっていた。
瘠せ衰えた身体からは治療には使われない類の薬品の匂いが染み付いていた。
弟の顔もわからず、ただおそらくその時間になると審問官が繰り返し同じ尋問を行っていたのだろう、ナルビナ城塞で兄が見た『真実』を毎日毎日命を削るようにして語った。それなのに、彼はヴァンが「もういいよ、みんなバッシュが悪いんだ。あいつのせいで兄さんは…、この国は…ッ」と声を荒げるたびに「ちがう」と弱々しく首を振るのだ。
まともとは言い難いがそれでも言葉を交わせるのはその瞬間のみで、後は人形のように呆けてしまう兄が、己の口で語った『真実』を本当に心から信じていたのかはわからない。わからないまま、最後までレックスはヴァンの手を握り返すことなく、擦り切れるように息絶えた。
『どこへ行くことになってもヴァンを忘れなければ、ダルマスカをすぐ傍に感じることが出来るだろう。家族と、兄弟と、友人と過ごした、この暖かな日々を思い出せるだろう。どこか遠くで死と向き合うことになっても、その死が酷く寂しいものだったとしても。心がこの色を忘れなければ、俺は独りじゃない。満たされて、最後まで戦える。信じている』
そう言ってくれたのに。髪を撫でて綺麗だと言ってくれた、愛していると言ってくれた、必ず帰って来ると唇に誓ってくれたのに。
枯れ木みたいに頼りなくなってしまった痩躯に抱き縋って、何度泣いてもレックスがヴァンの髪に触れてくることは無かった。薬臭くかさついた唇は接吻を返してはくれなかった。名前を呼んでもくれなかった。
ヴァンは納得できる理由も真実も何も解からないままただレックスを奪われたのだ。
「俺、認めてない。あんたの言う『真実』が正しいなんて認めてない」


認めさせてみろ。

ここで野垂れ死ぬなんて許さない。


と、その双眸が語っていた。
憎しみや悲しみから逃げずに向かい合う少年の眼差しは、愚直なまでに真っ直ぐで今のバッシュには殊更眩しく思えた。
2年前に止まった時間が動き出したと感じているのは己だけでは無いのだ、とバッシュは悟った。唐突に熱いものが眼窩に込み上げるのを感じた。この少年にとってもまた、二年前は過去ではない。自分と同じように、蟠り澱んだ時を動かして『真実』を探る者が居る。喩えそれが年端もいかない少年であっても、少なくともここに一人だけはどんな理由からであろうとこのバッシュ・フォン・ローゼンバーグと言う命の価値を認めようとしてくれる人間が居る。そのたった一人の人間が、ダルマスカの民であることが嬉しかった。
たとえ彼がバッシュに命が在ることを求める理由は憎悪だけであっても、今のバッシュにとっては真っ暗な闇に射す一筋の光に思えた。
「…あんたボロボロの割りに強いしさ、前衛に出てくれるのは有り難いけど俺のことは庇わねーでいいから」
「わかった。これからは頼らせてもらう」
いつの間にか仲間の視線まで集めているのに気付いたのか、少年は急に頬を上気させた。そして顔を真っ赤にしたままそっぽを向いて一人勝手にずんずん先へと進んでしまう。
一人で先行するのは危険だ。つい先刻、ヴィエラに「ミストが荒れている」と警告されたばかりだと言うのに。
咄嗟に後を追ったバッシュは、擦れ違いざまに隠す気も無いのだろう憮然とした空賊の視線とヴィエラの失笑を感じた。
無鉄砲に飛び出して行った少年を追いかけようともせずにいる二人を訝しく思っていると前方から「うわぁ!!」と案の定、切羽詰った叫びとモンスターの唸り声。
もう後は振り返らずに少年の救出に走った。













end
2011.05.01(再掲)


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