きぃん、と耳につく。
グロセア機関特有の硬質な音がして、青年の足元が微かに揺らいだ。
―――――皆様、本日はバート交通公社をご利用いただき、誠に有難うございます……
清涼なアナウンスと、同時に腕を叩かれる。
「どうした。何を呆けている、行くぞ」
ダークグレイの髪のこめかみに白いものが混じりはじめた初老の男は、搭乗口から内装をざっと眺め「なかなかだ」と頷いた。
「何が」
「内装、外装、客層、申し分ない。…船体も基本構造はドッグから出した時と変わっていないようだが、炉をビュエルバ製の物に変えたか…。聞こえるか?音が違うだろう」
「…確かに静かだな。無駄なアイドリングの音も一切無かったし…、最新式か…?」
仕事柄、そうした情報には早耳だと自負していたが。
表の市場に出回っている装置には勿論、裏で流れているものにもそれらしきは無かったはず。
首を傾げると、隣の男はからかうように笑った。
「いいや、改良型だ。いい技師を雇っているようだな」
酷く懐かしそうな眼差し、珍しくヘイゼルの瞳を眇めて遠くを顧みている。
いつもいつも前しか見えていない、後ろなど野となれ山となれとぐらい平気で言うような男が。
笑い皺を作った眦を見て、少し突付いてみたい興味が湧いた。
「公社に知り合いが?」
「腐れ縁、というやつだ。お前にもいるだろう、うん?」
やぶ蛇だった。突付くんじゃなかった。
ポーカーフェイスに失敗してむっつりと黙り込む青年の肩を、男は矜持に触れない程度に軽く叩いて宥めた。
さっさと一人で上って行ってしまった男の後を追うと、発着場の大屋根が畳まれたせいか出発前には遮蔽され薄暗かった展望ロビーの階段の先には眩しく光が差し込んでいた。
船体が傾くにつれて、瞼を舐めた熱が足元に過ぎ去ったのを知って。
思わず閉じてしまっていた目を開いた。
ターミナルの船橋、ドッキングポートから切り離され、船首を斜めに傾いでゆっくりと船体を航路へと沿わせていくのを足の裏で感じる。
どうしてもそれが遅く感じてしまうのは、軍用艦に搭乗するのに慣れてしまったからだろう。
そう言えば、こうして遊覧目的の大型旅客船に乗るのは久しぶりだ。
私用で飛空艇を使うとなれば、家には造船業か飛空艇の卸売りでも営めるくらい馬鹿みたいに船だけはたくさんある。骨董品並みに旧式の、解析機も探知機も無い…計器と言ったら電算機と気圧計くらいしかない、命知らずな機体から。
最新鋭の軍用艦と同型の魔石炉やグロセアエンジンを積んでいる船まで。ピンキリ。
中には設計からあの男が手懸けた船もある。
その美しい飛空艇の肢体を思い浮かべ、青年は芋づる式に思い出した悪夢に顔を顰めた。
生々しく思い出される12の春。
アカデミーから帝国立士官学校へ転入したての頃だった。
まだ若かった、子供だった、無垢だった、親を疑うことなどしなかった。
世界で最高最速の船に乗せてくれる、父の操縦で。普段は家に居るのか居ないのかすらわからないほど忙しい父に構ってもらえるのが、正直、嬉しくて嬉しくて。
まさか父親がリミッター制御をLv5までブッちぎって、航空法違反すれすれの航法でかっ飛ばすとは夢にも思わなかった。あの時は死ぬと思った、本気で。
操縦席で「はーっはははははははは!!いや、実に爽快な気分だ!お前もそう思うだろう!?」と楽しげなあの男を見て、金輪際コイツの船には乗らん、と心に決めた。

『はっはっはっ!まだまだあああ!容赦はせんぞ〜!』『いい加減にしろ!もう加速するなヤバいヤバいジェネレータが火噴k(ry』『これくらいでどうにかなるような軟な機体ではないわ!それ錐揉み旋回〜!!』『うおわぁあああぁーーーーッ!!』……生き地獄を味わった。

だからこそ、今のこの船の躁舵手が良い腕をしているのがわかる。
舷側を挟むように過ぎていく風圧を上手く利用して、ヤクトでは無いが気流の乱れやすい空域を恙無く運行しているのだから。
あの馬鹿だったら乱気流の中へだって特攻かけて突破するに違いない。
ああよかった、連れて行かれた先が個人用機受付窓口じゃなくて…!!
「ここは休憩室か何か、設備されてるか?」
売店の窓口嬢に微笑みかけると、一瞬だけ目元に艶な色が過ぎったがプロらしくニッコリと営業用のスマイルを返された。
「奥のラウンジからリラックスルームをご利用頂けます。
キャビンチーフに搭乗番号とお名前を、すぐにお部屋を用意させて頂きます」
「有難う」
だいたい旅行なんぞ行くような慣例など無いはずなのに何の気の迷いか、半ば強制的に無理矢理休暇を取らされて…。
理由も行く先も告げられずに、ほぼ着の身着のままで着てしまった。
航路は南西…、どうやらこのまま砂漠のど真ん中まで連れて行かれるらしい。
あれだけ強引に連行しておいて、ひとしきり構いつけたら飽きた、とばかりに同行者を無視して展望デッキの特等席に陣取っている。何やら機工士であるらしいモーグリと熱く討論している男。
こいつに道中さんざっぱら小難しい講釈だの愚痴だのぶち上げられて、適当に聞き流そうにも逐一意見を求められれば流すわけにもいかず。
旅立つ前からげっそりと疲れ果ててしまっていた。
…多少ぼんやりしていたところで咎められる謂れは無い。
喋り捲ってここまで来て、まだなお討論する余力のある男のバイタリティーには感服するが、ここらで自分はドロップアウト。到着するまではリラックスルームで死んだように転がっていたい。
デッキの円卓を回り込み、強化ガラスの上に立つ。
見渡す青空に重なるように、生成り色のブラウスの首元にはきっちりと巻かれたシャボタイに濃紺のベストが船窓に移りこんで辟易とした。
どうせなら、身分と立場で装いまで制限される帝都のなりのままではなく、旅装ぐらいしておきたかったのもだ。この格好では「自分は良家のお坊ちゃんです」と対外的にアピールしながら歩いている馬鹿のようだ。
唯一、まともに見えた実用的な膝丈の皮のブーツでさえ、服装に合わせて細身で精緻な刺繍が施されている。
「親父、俺はラウンジに居るから」
「ああ」
「…あんたも少し休んだらどうだ。最近、研究所でー…アレだ、高濃度ヤクト地域でのバイオスフィアの研究だったか、人工生態系の形成の何たらかんたらとか言う新しい部署を立ち上げたばかりだって言ってたろ」
「そうか」
そうか、じゃねぇよ。
モーグリのポンポン凝視しながら思索に耽るな。ビビられてるぞあんた。
徹宵続きで毎晩…、いや毎朝か。
フラフラになって帰って来るから心配だ、とお袋が嘆いていた。
そんなになっても家にだけは毎日帰って来る根性は見上げたものだが、ちょっとは身体を労われよ。あんたもういい歳なんだからさ。
たまに「危ないですから防護服を着てください!」と半泣きの若い研究員を両手両足に引っ付けてギャーギャー騒ぎながら廊下をのし歩いているのを見かけると、とても50も半ば過ぎには見えないが。
結局、またいつもの如くブツブツと自分と対話しだし…こうなったら奴は梃子でも動かん…早々に匙を投げてラウンジへ向かうことにした。





ゆらゆらと、揺り篭に柔らかく揉まれているようだった。
起きてはいるが半分以上は寝ている。
バート交通公社はアルケイディア帝国に限らずエア・ターミナルを持つ街では名の通っている、業界では大手と言って良い企業だ。
現社長が裸一貫から起こした公社の社訓は「身分や地位に関係なく純粋なサービスを。空が全ての人々に啓かれ、旅が全ての人々の憩いとなるように」だったか…。
なるほど、調度もサービスも一般の枠を出ないものばかり。
これが庶民にも気軽に手を出せる空の旅、というものなのだろう。
けれど、そのサービスは確かに質は落ちるが上層階級の人間に不快感を与えるほどの粗雑なものでは無い。素っ気無いほどのリラックスルームの居心地は意外なほど良かった。
大きく外の様子が一望できる窓、だが死角がきちんと作ってあって不安を駆り立てられないのがいい。時計が無いのも気に入った。
うつらうつらとしながら、アルケイディスの旅行代理店で公社のマークを見たとき、まるで揺り篭のような丸い形をしていたのが、他の奇抜なデザインの交通公社とは違って目を惹いたのを取り止めも無く思い出していた。
「1時間と半分くらい寝たか…」
枕端に置いたピンが、つつつ、と転がった。
自動操縦から手動にエンゲージした…、もうすぐ着陸か。いいな、この音。揺れも。
軍用艦は勿論、戦闘機ならこうは行かない。
俺はやっぱり機より艇が好きだ。戦闘機乗りより船乗りがいい。
いつまでもどこまでも続くような、なだらかなモレンド。
深く息を吐くとそのまま死んでしまえそうだ。着艦時特有のグロセアエンジンの鋼を撫でるみたいな微かな音がゆっくりと消えていくまで待って身を起こす。
ラウンジを出れば搭乗口には人だかりが出来ていた。
「またのご利用をお待ちしております。有難うございました」
斜め45b度の綺麗な礼に送られて出た外は、人、人、人…で、ごった返している。
皆、一様に表情は明るく、帝国からの旅行者の姿も多かった。こんなに乗っていたのか。後続の船からも溢れ出るのに憮然としてそれを眺めていると、不意に背後から手を取られた。
「お花」
籠一杯に百合に似た白い花。
青年より頭一つ半、背が低い少年の腕から零れそうになっている。
見覚えの無い色合いだった。淡い象牙色ともどこか違う、真っ白と言うには柔らかくくすんだ。おそらくは、この地方でしか生息していない花。ふ、と匂う甘い香りは今まで嗅いだどんな香水よりも馨わしい。
砂漠の嶮しいほどに燦燦と照りつける昼日中を、長いことそうしているのだろう。
火照った日に焼けた肌は、ブラウスの上から添えられた指からも熱が伝わるようだった。どこから湧いて出たのか訝しく思いつつ、咄嗟に「いや、けっこう」と断りかけて。
逸らした視線を追いかけられて、まともに青灰色の瞳と見合わせてしまった。
伊達でかけている眼鏡を買う際に「瞳は心の窓、見開いて見つめて見合って心が繋がる」というキャッチフレーズを急に思い出す。
窓だというのなら、この子供の心は空か。滅多にお目にかかれない澄んだ青灰色だった。
「綺麗だろ。…東ダルマスカの断裂の砂地にしか生えてない亜種だよ。
こっちは匂い袋を詰めたお守り。花言葉は、えーと、えーと……忘れた…、何だっけパンネロ」
鳥の巣みたいなプラチナゴールドが振り返ると、そこにはこれまたでっかい籠一杯に白い花を携えた蜂蜜色のお下げ髪。
まずい、増えた。
合計四つのでっかいつぶらな瞳がこちらを覗く。
「もう!昨日あんなに覚えとくように言ったのに、ヴァンはド阿呆なんだから…」
「馬鹿って言われるより傷つく、それ」
ちょっと凹んだらしい少年を、お下げの少女はつるっと無視した。
さり気なく青年の隣に走り寄って、ヴァンとは反対側の腕も捉えてニッコリ微笑む。…少し無理矢理に弧を描かせた口元には色気は無かったが、代わりに嫌味も無かった。
商売人の闊達な笑顔だった。
「『永遠の幸福、輝き、幸せな思い出』って言うんです。最良の日にぴったりでしょう?」
最良の…、ああ、そうか。今日は、アーシェ・バナルガン・ダルマスカとラスラ・ヘイオス・ナブラディアの婚礼式典。
この人出は祝賀パレードの為だったのか。
ラミナス王陛下の血族でもあるビュエルバのオンドール候はもとより、ロザリアからは王太子殿下とその弟君、アルケイディアからも親交国の慶事を祝うべく末の二人の皇子が式典に出席する。
ダルマスカ・ナブラディアの両殿下の婚礼式典というよりは5カ国外交の政治色濃いものになるだろうな、と同僚と話していたのはつい昨日のことだったはず。
何故、こんな大事を忘れてなどいたのだろうか。
いや、そもそも、公安総局第9課ジャッジ隊に所属してる俺が何でこの日に休暇など取れた…?いろいろとあれでそれなクソ爺だが、一応は国家の要人であるあの男がどうして物見遊山などしていられる。…俺をここへ連れて来た理由はなんだ。
ぞわり、と何か。
背中を這い上がって心臓の裏を舐めた。
「ほんとは、しょくのうのほご、だからムスル・バザーでしか出しちゃいけないんだけど、今日は特別お祝いだから。だから、そんな顔しないでくれよ…」
「なに…」
「大丈夫だから」
大丈夫、と口にした。
お前の方こそ、どうしてそんな苦しげな顔をしているのか。

「大丈夫だよ、バルフレア、あんたなら…」

お下げの少女から五輪、少年からも五輪。
合計十本の花の束を買い取って、それぞれの幼い額を一緒くたに腕に抱いた。…抱き締めた。
通りすがりの客にしては過ぎた挨拶に、少年少女は面食らったようで。はにかんで照れ隠しに「お兄さん!有難う、またご贔屓に〜!!」と笑った。曇りも翳りもひとかけらも無かった。
幌を貼った古い荷馬車で年老いたチョコボに水をやっていた銀髪の少年と、彼の傍で荷下ろしを手伝ってやっていた蜂蜜色の髪をした若者二人が振り返る。笑顔で駆け戻ってきた弟妹の頭を撫でていた。…少年と少女の横顔はここからでもはっきりとわかるのに、傍らに立つ彼らの面差しは曖昧だった。
地面を焦す、眩しい陽光の下へと笑いさざめいて駆け去って行く彼らを見送って。眼鏡を外す。
腕に残ったのは太陽の暖かさを含んだ、朱色の花々。
白い花は知らないが、この花なら、知っている。
「ファムラン」
のろのろと踵を返した先には、あの男が立っていた。
ついさっき、顔を会わせたばかりだと言うのに白髪が増えてさらに少し老けたようだった。
こちらの方が正しいのだろう。
「お袋はどうしてる?」
なんだ藪から棒に、とは返されなかった。
男は軽く嘆息して眼鏡を押し上げた。
「毎日毎日、菜園だ。…儂よりよほど、バイオトロンの研究には向いていると思うがな」
「兄貴らは」
「バルタザールはYPA社で機工士の真似事をやっとるようだが、連絡一つまともに寄越さんからなぁ…。フロリアンなら研究所で儂の助手をしとる」
ラバナスタの西門が開かれて、人々が流れていく。
門の内にも外にも黒鉄の鎧は無く、ヒュムやバンガやシークや…遠方から今日のために駆けつけたのだろうか、少数民族の集まりもちらほらと見えた。
「俺は…、ジャッジか…」
白いブラウスと皮のブーツは、あっさりと姿を変えた。
ずしりと重く、肩を痛めつける黒鉄も。ひび割れ、歪み、がらがらと剥がれ落ちてしまう。
赤い花弁に落としていた視線を戻すと、ほんの少しの違和感があった。
高さが違う。…ほぼ同じくらいだった視界が高くなり、いつの間にか男を見下げていた。
「いいや、お前はジャッジではない。儂の息子ではない。ファムランでは無い」
後ろ手に組んだ手を解き、青年の腕の中から一輪を摘む。
男の手に渡った花は柔らかな赤では無く白磁色だった。
くるくる、と手慰みのように回して、見るともなしに眺めて。淡々とこちらに視線を向けている青年の顔を見上げてにやりと笑った。
「お前が花売りから花を買うとはなぁ…。ふん、なかなか可愛いじゃないか」
「花を見て言えよ」
こめかみが熱い。
久しぶりに赤面というやつをさせられた気がする。
「そろそろ、行け」
「ああ。…あんたに言われるまでも無い」
「こんな下らん陥穽に引っかかっている場合か、しゃんとせい。
…儂は諸刃を手にした、己に返る刀は承知の上。最後まで袂を別つと言うならば、儂の仕掛けから逃げきってみせると言うならば。この刃、見事砕いてみせろ」
ガラーン、ガラーン、ガラーン、と遠く遠くに暁鐘が鳴り響くなか。
男は背を向け、二度と振り返ることは無く。
その背中もまた、花売りの少年たちと同じように日向の中へと掻き消えて行った。





水の底から浮上する。
澱んでいた意識が徐々に鮮明になり、まず感じたのは痛みだった。
「みず」
声にはならず、ただ微かな息が漏れる。
薄ボンヤリとした視界の隅に移りこむ赤い花弁は、この辺りにはごく少数しか自生していないはずのガルバナだった。まだ混濁として幻でも見ているのだろうか。
さらり、と脂汗の浮いた額を撫で上げて、指に伝わせた雫がそっと下唇に乗せられた。
数度繰り返されて、やっと男は本来の声を取り戻す。
「バルフレア、気分は?」
「最悪だ…。ああ、いや…、悪くない」
額に置かれた柔らかで長い指は、朝露を含んだ深緑の馨りのする銀髪は、俺の名前を呼ぶアルトは…。
溢れる前に、つ、と瞼を閉ざすように撫でた冷たい手に視界を奪われる。
「砕けてしまうのは、まだ早い」
「ああ、そうだ。それに砕けるのは俺の方じゃない」
フランの耳がピクリとそよいだ。
階下でお馴染みの騒音が聞こえる。
ああ、やっと来た。へそ曲がりな上、強情っ張りなこの相棒の、意地を折れるたった一人が。
「あなた、4日間も意識が無かった。
リドルリアナ大瀑布でデスクロウの鎌をまともに喰らったの。…弾き飛ばされた場所が悪かったわ、崖から落ちて海に叩きつけられる寸前だったのよ?」
囁くアルトは僅かばかり棘を含み、バルフレアのらしからぬ失態を責めていた。
言い返す言葉も、切り返しも思いつかなくて、ただ瞼に感じる掌に溜息が零れた。
あちらにはあって、こちらには無いものよりも。
何よりも今、この手が傍らにある、それが息も詰まるほど有り難かった。
濃密な沈黙を破ったのはバタバタと耳に馴染んだ忙しない足音。扉を破る勢いで駆けてきたくせに、ノックすらできずに右往左往している気配。弾んだ息を隠そうとして、見事に失敗している。
「あの子に感謝しなくてはいけない。
今回あなたが怪我を負ったのはあなたのせいなのに、ずっと『俺がでしゃばって前に出なけりゃよかったんだ』と言って聞かなかった。あなたがまる4日魘されていたなら、彼は4日間ほとんど寝ていない。鎮痛の効能のあるガルバナを探し回って摘んで来たのも彼」
「…それじゃあ、二人そろって今日は休暇だ。悪いなフラン」
鬼姫さまに言伝、頼むわ。
去り際に相棒の鼻を、ぎゅう、と捻って出て行く長身の後姿。
入れ替わりに入ってきたヴァンは、枕端まで寄っては来たものの。それ以上は近寄らずに、しきりと寝ている男の様子を伺っている。叱られた犬のように、耳を倒して尻尾を巻いて。肩が丸くなっている。
痺れを切らしたのは男の方だった。
「ヴァン、来い」
「あ、ああ…。え!?ちょっ…、あ、あんた…っ」
引きずり込んで口を塞いだ。
舌を結んでひとりきり睦み合えば謝る代わりに、病人のくせに、と詰られた。
「よかった。心配した、あんた死ぬんじゃないかっ…て。
こんなの駄目だと思ったんだ。ここで死ぬのは駄目だって。あんたは、あんたなら、きっと嫌だろうって」
ヴァンはしきりとバルフレアの頬を撫でた。睫毛をしごく指先が濡れて、何度もぬぐった。呼吸を忘れた魚みたいに、はくはくと喘いで途方に暮れ、もうこれしか手が無いと言うように肩口に額を押し当てた男の肩を抱く。
肩がじわりと熱くなって濡れるのが堪らなかった。

「大丈夫だよ、バルフレア、あんたなら…」

返されるのが罵声でも、沈黙でも。
かまわなかった。
ぎゅっと目を瞑って身構えた少年の肩の上、額を寄せていた男の低く笑う気配。
「…お前はどこでも変わらないな」
「へ?どこでもって…??」
目を丸くしたヴァンの顔は幼い。
幻の花売りと面影はぴたりと一致した。その青灰色の曙陽の瞳も。
どこでも俺を引っ張り上げるのはお前だ。
アホみたいに口を開けてるなよ、真面目にやってんのが馬鹿らしくなるだろうが。…これが、何も知らない、額面どおりその通りなら。こんなに心は震えないだろうに。
「こっちの話だ。…眠い。お前も眠いだろ、寝ちまおう」
深く、睡ろう。
明日にはまた誰よりも速く飛ぶ、逃げ切るために打ち砕く、渇望してきた解放へ。遙かな高みへ。
だから今だけは。
今だけは失速して、腕の中の確かな存在だけを感じて。


そしてもう夢は見ない。
喪ったものだらけに囲まれた、白磁色の夢など。













end
2011.05.01(再掲)


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