戴冠式は暁鐘と共にラパナスタの大聖堂で、一般公開はされていない。戴冠式の後、お披露目は祝賀パレードでだ。いずれも御供や取り巻きが山ほど付いていて、少しもアーシェ一人になる瞬間が無い。
結局、ミゲロの目を盗んで下働きに雇われた店員に紛れ、王宮の厨に忍び込むことにした。照明が落とされた人気の無い通用路の閂をあけたヴァンは、お下げ髪の相棒とは似ても似つかない長身の影に驚いて急いで手をひっこめようとした。
「おい」
「何でアンタが。餌がこんなとこ来てどうすんだよ」
本当ならここに来るのはパンネロのはず。なのに代わりにこいつが来たということは、今相棒と一緒に居るのは。
そこまで考えてようやく意図を悟る。
離せよ、と振り払って取り戻した手。馬鹿力で掴まれた指先がジンジン痺れている。険のある目つきで「近寄るな」と威嚇され、バルフレアは肩を竦めた。一昨日降った雨に洗われて砂塵も雲もきれいに流されてしまった満天の星空を見上げ、舌打ちする。
「…ひとの恋路を応援してる」
自分の恋路はどうなんだよ、と言いたくなるが黙っておいた。応援しているのはヴァンも同じことだったから。だが、だからと言って王宮の中庭へ続く狭い道で、薔薇の梢に埋もれるようにして男二人が犇めき合っている状況は悲惨だ。
ヴァンが滅多に吐かない溜息を零している頃、即位したばかりの女王もまた応接に遑の無い大広間の片隅で俯いていた。
本当ならば先王に倣いブルオミシェイスの大聖堂にて大僧正の手から授かるべき所だが、未だに先の襲撃の痛手を負う神都ではアナスタシス猊下に継ぐ賢者はいない。
三年前、夫と共に壇上に立ったアーシェは、たった一人でその場所に上った。一切の宝飾を廃して、刺繍と幾重にも重ねたチュールレースだけで飾られた白い衣装に身を包み、跪く。
「恵み深き神の祝福が汝の往く道に、とこしえにあらんことを…」
額に授けられた冠は、サークレットよりもやや重く、締め付ける感覚のするものだった。濃紺の位袍が肩にかけられ、セルブラント神父の手に支えられてやっと自分が今まで震えていたのだと知る。
振り返り、ステンドグラスを透かして見上げた七色に溶ける空漠。
頬に触れる王冠の房飾りが揺れて、額の重みが今からの私の行く道を諭す。
閉ざされた扉を開けるなりドッと押し寄せて来たのはラバナスタの強い陽光だけではなかった。熱狂と喝采。情熱を放埓する民衆を前に、強烈な目眩を感じた。華々しい音曲、蒼穹に舞うガルバナの力強い赤、神々への賛美と即位したばかりの女王への祝福が広場には溢れていた。
「ファーラム」
些か不謹慎ではあるが今夜はそれこそ「腐るほど」耳にした祝福の言葉。思索から引き戻されたアーシェは反射的に会釈を返そうとして、それが居候だと知って止める。
表向きは遊学中の他国の王子という設定で通している青年は、この祝宴を見識を広めコネクションを充実させるための重要なイベントと捉えたようで、方々への挨拶回りに勤しんできた帰りであるらしい。今夜の主役であるアーシェへの祝いの言葉が最後、というのは無礼千万だが、そこが彼らしいとも思えて憮然とする。
青年は一張羅を引っ張りだして来たのか、アーシェが眼にしたことの無い真っ白な民族衣装を纏っている。誂えたようにアーシェの羽織る位袍と揃いの濃紺の帯を締めていた。
「ありがとう」
「うん。あー、とても、似合ってる。王冠。それに、綺麗だ」
「…ありがとう」
慇懃尾籠な美辞麗句が飛んでくるものと思い込んでいたアーシェは肩透かしを食らった。
常ならば気持が悪いくらいよく回る舌なのに、なにか悪いものでも拾い食いしたのでは。もしかして酔っぱらっているのだろうか。
怪訝に思ってじろじろと眺めるアーシェに、青年はまた妙なことを言い出した。
「こうして二人並んでいると新郎新婦みたいだね」
「………。」
これは…、いよいよもって様子がおかしい。変だ。
しょっちゅうアーシェの私室へ押し掛けては愛人商売の売り込みに余念がない青年ではあるが、人目がある場所や公式行事などでは身分に相応しい振る舞いを心がけ、一切、そんな素振りは見せなかったのに。
ちょっと顔貸しなさい、と言う前に青年の方から「ここは暑いね。ちょっとテラスへ行って涼まないかい」と誘われ、そのまま取り巻いていた各国の要人に暇乞いをした。
挨拶も済ませ、どうせ後は無礼講へと雪崩れ込むだけだ。主賓が席を離れたところで構うまい。
「明日の朝には決着がつくだろう。長逗留して悪かった。俺は近いうちに国許へ戻るよ」
「……随分と急展開ね」
「あー…、うん。実は二ヶ月くらい前から、兄貴たちからの情報でこうなるだろうとはわかってた。でもどうせなら君の戴冠式まで待ってから、と思ってね。できるだけ悪足掻きしたかったし」
「悪足掻き…?」
暗く照明の落とされた庭に張り出た手摺へと肘をつく。
手入れの施された閑雅な花壇を見下ろしながら、青年はひとつ深呼吸をした。そして、アーシェの方へと向き直り、見たこともないくらい真剣な表情でこう言った。
「愛人になれないのなら、結婚を申し込もうと思って。
そこに立って少しの間じっとしていてくれればいい。決まり切った返事で断られるにしても、一度くらいは真心を篭めて求婚させてくれ」
「だ、駄目よ…!人払いはしてあるけど、ここは野天です。誰かに見られでもしたら、貴方の婚期に影響がでます。ただでさえ田舎の小国を理由に断られてばかりなのに、このうえ私から公然と振られたという事実まで上乗せされたら確実に縁が遠のくでしょう!?膝が汚れますから、さあ、立って!」
応える気はさらさら無いのにアーシェの頬は紅潮した。
こんなに狼狽したのは久方ぶり…、いやこの青年との初対面では逆上したけれど。
「覚悟の上だよ、アーシェ。俺はここを去る身だが、君の心に影を落とすくらいは許してくれないか」
批難の眼差しを浴び、それ以上の俯いて「私は…」と言いかけたアーシェは、視線の先でふよふよ浮いている物体を目の当たりにして硬直した。石化したアーシェを訝って同じようにテラスの下を覗き込んだ青年も、ふわりふわりと停止飛行しているものを目にして瞠目する。
「このことはどうか内密に」
「…それは君次第だな」
緊張を孕んだ時が流れ、アーシェは向き直ってまじまじと青年を眺めた。瞥見しただけでは頼りなく思える優しい顔立ち、帷が降りた闇の中では別人に見えた。青灰色の瞳が、冴え冴えと氷より硬く澄んでいる。
「私は…」
室内楽の音が微かに聞こえるきりの静けさのなか、ごくり、と固唾を飲む音がいやに大きく聞こえた。どちらのものでもないそれを聞いた二人の間にドッと疲労感が漂う。
「ちょっとそこまで誘拐されてきます」
「帰って来るんだろうね?」
「当たり前でしょう」
「あ、あの、お邪魔してすみません。
でも、えっと、お二人は喧嘩してたわけじゃない…んですよね?」
遠慮がちな声とともに撃鉄を起こす微かな音がする。
暗闇に溶ける漆黒の鎧を纏ったヴィエラとタンデムしているのは、給仕の格好をした少女で、申し訳無さそうにしながら銃口を青年の額に定めている。言動が噛み合っていないが、本気のようだ。長いであろう髪を纏めたサテンリボンのブリムから覗く瞳は、先程から淡々と照準を合わせている。
返答次第では、アーシェの敵と言うことで、肩くらいはぶち抜かれるだろう。
「いつもは仲良く喧嘩してるんだけどね。…彼女を無事に帰してくれると約束するなら見送ろう」
フランの方は一瞥もせずにパンネロに向かってそれを言われ、アーシェは慌てて青年の足を踵で踏んづける。余計なことを言うな。
「お約束します。今夜一晩だけでいいんです、アーシェ様を盗ませてください」
差し伸べられた腕へ、アーシェは裾をものともせず思い切りよく飛び降りた。後部座席のパンネロとフランに割り込んで機上する。後ろから引き寄せられ、彼女の膝の間に座る形になると、途端にバイクは急発進した。
火照った頬に夜風は心地よく、だが「寒いですか?」と背後から問う声には「そうね、少し」と答えておいた。回された腕が温かい。
どういうわけか、グロセアリングの稼動によって上下するミスト濃度で警報がなるはずの夜空は静かなまま。周到で大胆な犯行だ。現場に残された青年は、あーあ、と天を仰いで呟いた。
「…参ったな。まさか女の子に攫われるとは」
だが、これでよかったのかもしれない。
今はまだ、相応しい時では無いということだ。大人しく国許へ戻ろう。しかし、一廉の男に成って再びこの地を踏む日が来たなら、小国の王子だなどという卑屈さはかなぐり捨てて、今度こそ彼女の前に跪くのだ。
久しぶりに会った面々は変わったようで変わっていないような。
ヴァンとバルフレアは相変わらずど突き漫才の間柄のようだった。憎たらしいほどいつでも余裕綽々といった態のバルフレアを、あれほど高血圧なキャラに変貌させるのはヴァンにしか出来ないことだ。愉しい二人にはぜひこのまま行って欲しい、行けるところまで。
本物の余裕だとか中庸だとかが備わっているのは、久々の再会にほんの少し歳相応の興奮を顕わにしている主の隣で微笑していてるジャッジマスターくらいなものだろう。
「変わったのは貴女たちだけね」
「そう?」
私は何も変わらないわ、とフランは手の中の杯に視線を落とす。示唆されていることはとうに察している。困った、どうしよう、と柄にも無く狼狽している己の心を宥めるのに必死だった。
アーシェは呆れた視線を彼女に向け、別れた頃よりずっと娘らしく嫋やかな格好で「小父様、どうぞ〜!」とお酌している少女の後姿を見遣る。
視線に気がついたのか振り返ったパンネロが笑った。笑っているのだが、それがアーシェからフランへと向けられると、笑顔なのに少し怖い。
なんとなく…フランを見るパンネロの目が、餓えているのだ。言葉は悪いが率直な感想だ。ハングリーだ。
つい先ほど別れた小国の王子の、真剣な眼差しを思い出させる。
「…逃げ切れるかしら、お互いに」
思わず呟やくと、フランの長い耳が斜めに倒れた。
いつでも泰然自若として隙の無い彼女にこうした気分にさせられるのは初めてのことだが、憮然とする。粋を利かすつもりなどない、そんなお節介は焼かずとも収まるところにまるく収まってしまうんだろうから。面白くない、お節介は焼かないがちょっかいは出すことにした。
フランの頤を捉えて爪先立ちで頬を寄せ「私は逃げ切って見せるわ。貴女はどうだか知らないけれどね」と囁いた。せいぜいうろたえまくって頑張って頂戴。踵を返して行ってしまうアーシェに言い返そうとしたが、絡まった視線は外しようも無い。
青灰色の瞳が、冴え冴えと氷より硬く澄んでいる。いや、青い炎だ。求めて、燃え盛っている。まっすぐにフランを見つめる少女の瞳の奥に、酸素を欲してチラチラと翻る炎の光暈が垣間見えた気がした。
THE CRAVE
2011.05.01(再掲) 2017.01.07(改稿)