帝国成立以前から皇家マルガラスが代々に渡り拠点を構えてきた琥珀の谷。
別名、王家の谷とも呼ばれる万仞の絶壁は、黄昏の斜陽に白く輝いている。その麓に一際大きな本宮とそれを四方から囲む形で離宮が建っていた。
四つの離宮のうち、もっとも古くからあるのは西側に位置する霽月宮と呼ばれる宮である。
本宮の建造後、古の天帝が御世に永久の安寧をと祈りを込めて作ったとされる建物で、ダルマスカ王国の誇るガルテア様式の大聖堂と並び称される荘厳さを誇る。
例によって男二人は昏黒に乗じて霽月宮の鋸壁を登り、城壁を二つほど越えて宮殿内へと潜入した。衛兵の見回り時間や、警備の穴を驚くほど熟知しているヴァンに首を傾げつつ、バルフレアは油断無く日没の闇を燈籠だけがぼんやりと照らし出す回廊を見渡した。
「壊れているわね」
浮遊石の台座を失ったクリスタルを検分して、ずばり見たまんまの発言をしたフラン。
その横ではパンネロが荷物を探っている。皹が入って使い物にならなくなっていた浮遊石はアインヘリエルと呼ばれる、浮遊石の中でも比較的珍しい類の石だった。バブイルから盗んだアインへリエルがおたから袋に残っていなかったか探しているのだ。
見たところ錬金術が施術されているのは銀盤のみで、台座のアインヘリエルはクリスタルに合うように削れば代用が利くように思えた。
実父の汚い筆跡と難解な古文書に頭を悩ませ、キレかかる度に少年に宥めすかされながら。男はどうにか御調歌とクリスタルの役割を読み解いた。
片手で目を覆うようにこめかみを揉む。
「モルガン氏の研究レポートによれば、水・炎・風・土のクリスタルはみな浮遊石アインヘリエルの台座に固定されているそうだ。『原理は定かではないが、クリスタル単体では意味を成さず、台座と一体となった形で役割を果たすことが出来る』んだとよ」
「うわ〜、私、責任重大…」
どこから出したのか鎚と鑿を構えたパンネロが眉をハの字にする。
継ぎ合わせた地図から風のクリスタルは西、ロザリア帝国の琥珀の谷にある離宮の地下から谷へと繋がっている場所だと知って、どういうわけか「今度は私も行く!」と張り切っていたパンネロだったが、フランとともにシュトラールに残って台座の修理をすることにした。
別れ際ヴァンに「大事な金づ…じゃない、お得意様なんだから。よろしく言っといてね」と念を押していた。
お得意様って何。今、金づるって言いかけなかったか。
バルフレアはそこはかとなく不吉な第六感を感じたが、まさかこんなわけだったとは。
天井から降ってきた全身黒尽くめの大男が、がばぁ!と少年を抱き潰している。熊に襲われる小鹿のようだ。いや、熊が鹿を襲うことはあまり無いが。
同じように上から降ってきた女も主君に合わせて黒尽くめだったが、楽しげな主とは反対に凄まじく物憂げで冷淡な表情をしていた。
「っがー!畜生、また見つかった〜!」
「惜しかったですねぇ、本殿まであと少しだったのに」
「ううう、いつか必ず忍び込んで…って、おい!どこ触ってんだよ」
小鹿は猟犬になった。足を踏ん張って後ろから回された男の腕をギッチリ掴むと、背負い投げの要領で横に投げ転がす。さして抵抗もせずに投げられた男は楽しげに「い〜じゃないですかぁ、ちょっとくらい。久しぶりに私に会いに来てくれたんでしょう?」と笑っている。
黙って銃口にサイレンサーを装着したバルフレアだったが、一足先に「いい加減になさいまし」と従者の鞭が炸裂した。
外では落ち着いて話も出来ないし――ここは天下の霽月宮の庭先だ――通された本殿には、予め客が来るのが解かっていたかのようにもてなしが用意されている。料理に釣られそうになるヴァンのサッシュを後ろからしっかり掴んで己の脇に座らせ、バルフレアは陽も落ちたというのにサングラスの男を睥睨した。
「…てめぇ、うちのとどういう関係だ」
長い睨み合いの末に出たバルフレアの言葉に、隣でスターフルーツを齧っていたヴァンがブフゥ!と噴いた。
「おい!あ、あんた、何を…」
「お前は黙ってろ」
「黙ってられるか!聞くにことかいてなんつー言い回しを…」
「言葉遣いでお前に意見される謂われは無い。…どうなんだ」
今度はヴァンに向かって聞いてくる。
呆れて「どうもこうも、どんな関係でもねぇよ」と言うと、向かい側で胸を刺し貫かれたかのような悲愴な顔でよよよと男が手をついた。嘆く主人に代わって説明してくれた従者によると、以前ヴァンがクランのモブ退治でロザリア領を飛んでいた時ひょんなことから船に乗せる羽目になって…以来付き合いを持つようになったのだと言う。男が一方的にヴァンを気に入ってたびたびモンスターの討伐などを理由にお近付きを目論んでいたらしい。
「見事、霽月宮の本殿まで忍び込めたら宝物庫一のお宝をあげます」だのと…、明らかに罠。
ちょっと目を離した隙に… こ の ガ キ は !
自分もアーシェの依頼を受けて動いている以上、あまり喧しく堅気の人間と――しかも王族や皇族と――馴れ合うもんじゃ無いと説教するわけにもいかないが、どうせ付き合うなら皇族は皇族でもアルケイディアのラーサーにしとけよ!と言いたい。
あそこの皇帝の傍なら、ヴァンに対して兄貴代わりぶってるのか父性を刺激されてるのか諜報部局に所属してるのをいい事に今だにヴァンの動向をストー…見守りまくっているバッシュが番犬よろしく睨みを利かせている庭みたいなものだ。
大きなお世話の親心を焼かれている少年は「そ、そんな訳でぇ〜。侵入経路とかは予め詳しく知ってた、ん、だ…よね…」としどろもどろ言い訳をした。少年自身、迂闊に皇族と繋がりを持ってしまったことに対しては、拙かったと言う自覚があるようだ。
「『そんな訳で』の内訳けは後でじっくり聞かせてもらおう。みっちりな」
旗色の悪さに冷や汗を流しつつ、ヴァンは強引に話の腰を折って本題を切り出した。
肥沃な穀倉地帯を持つロザリア帝国の領内でもミストの濃化現象が起こす天災に手を焼いていたところ。この話を持ってきた空賊二人に対して男の顔も引き締まったものになった。
「ほほう、それは興味深いお話ですねぇ」
思案げにサングラスを外したダークグレイの瞳が黄褐色の色を帯びている。
口元に刷いていた笑みを消すと目尻からも笑い皺が無くなり、途端に生来の素地である浅黒く陰影の深い嶮しい顔立ちも相俟って、堂々たる体躯に見合うなんとも言えない威容が前面に押し出される。帝位は兄弟のものだと言って憚らない放蕩皇子ぶりを対外的にアピールしてはいても、この男もまたロザリア帝国に君臨する皇族なのだと再認識させられる。圧迫感を感じるどっしりと重い雰囲気は、王気としか言い表しようの無い。
近寄り難い空気を醸し出すアルシドが珍しくてつい見入ってしまったヴァンは、横顔に突き刺さったバルフレアの視線の鋭さに慌てて首を竦めた。
「私にも心当たりがひとつあります」
アルシドは従者に「グレーシアを呼んでくれ」と指示した。てっきり従者の一人を呼んだのだろうと思っていたら…、ドシドシと重量級の地響きと背後からブオォと聞き覚えのある生暖かくも生臭い鼻息が。
「グレーシアちゃんです」
可愛いでしょう〜、と言いながら頭を齧られている。
ヴァンはさすがに「そいつにソックリなドラゴンの尻尾を食べました」とは申告できなかった。バルフレアも「そいつにソックリなドラゴンを一昨日、四人で袋叩きにした」とは言わなかった。ペットは個人の趣味である。たとえガリゴリ噛まれて流血している飼い主と、甘噛みなのか獲物と見做して捕食せんとしているのか如何とも判断し難い様子のペットでも。
本人達が幸せならば余人が口を挟むことではない。
従者が抱えてきた銀盤は手入れが行き届いていたが、さり気無く猫缶くさいがあまり深く考えたくない。
「白く透き通るクリスタルが彼女の細首には似合うと思いましてねぇ。こうして首輪に………あらぁ〜?」
無い。
絶妙のタイミングで、ゲフォ、とゲップを吐き出したグレーシア。
「もしかしなくとも飲んだな」
「おい…。どうすんだよ、胃袋の中じゃん」
「あああ、あんな尖った物を飲み込んでグレーシアちゃんのお腹に穴でも空いたら…っ!」
三者三様で呆然とする男達を尻目に、従者は女の細腕で支えられるとは思えないほど大きな樽を抱えてきた。銀盤にどぼどぼと中身を注いでグレーシアの鋭い牙の並ぶ顎の下に持っていく。ああ、やはり餌入れ代わりにされていたのか。
「なに飲ませてんの?」
「下剤です」
サラリと返されて、ヴァンは「やっぱり…」と呻いた。
昔は人々に仰がれて奉られて、本来なら銀盤の上で台座に載せられ神秘的な輝きを放っているはずのクリスタルが…。
罰が当たるかもしれない。
罰を当てるなら尊いものをペットの首輪に使った殿下だけにぶち当ててくださいファーラム。
「よし!きれいきれい!臭いも無し」
「嗅ぐなよ」
グレーシアのお尻から失敬した半透明に透き通るクリスタルは、芯の部分近くなるほど白い色の密度が濃くなっていて、中心にはやはり古代文字で書かれた古謡がゆらゆら揺蕩っていた。新緑の色の細い文字を目で追っていると、古代文字など読めないはずなのに何となく内容が解かるような気が……いや、わかる。読めてくる。
喉の奥がポッと熱くなり舌が痺れる感覚に瞠目する。
「風を待つ薔薇の棘、遙か遠く往く西天に、沈む茜の風切羽根
道標を喪った旅人よ、心さだまらぬ迷い子よ
琥珀にまどろむ陽炎の砦に
せめて時を綯いて待て、されば見出さん」

―――――白き流れに

灼熱に炙られた熱鉄を飲み込む熱さに喘ぐ。
指で掻けば空気の溶けてしまいそうな、煙草の煙のように細い言葉の羅列。前の二人と同じく胸に吸い込まれるものだと思っていたのに、ゆらゆらと揺らめくそれはヴァンの唇に触れた。
「あれ〜?何で口に…」
「スケベ石だな」
「はぁ?」
「なかなかエロい仕様ですねぇ」
「え…?」
ヴァンを覗いて男二人は「うんうん」と頷きあう。そんないきなり結託されても。
別れ際にぎゅうぎゅう手を握られて「今度はぜひパンネロ嬢も一緒に」と言われ、ヴァンは即座に「うん、わかった」と言いそうになったが、斜め後ろから押し寄せる寒波が半端なく恐ろしかったので「当分は無理かも…」と言い換えた。ヒュム二人とドラゴン一匹に見送られた賊はもと来たように鋸壁を越えて霽月宮を後にした。
この中庭を抜けてあと一つ壁を越えれば市街地へと出られると言うところで、真後ろからついて来ていた男の視線が後頭部に突き刺さるのに堪えられなくなって足を止めた。
そのままでは衛兵に見つかってしまうので、薔薇の生垣の陰に身を寄せる。
「何だよさっきからジロジロと…。あ、まさかまた妙な勘繰りしてんじゃねえだろうな。あいつ諜報部を抱き込んでるだけあって俺がロザリア領空を飛ぶたびに通信寄越してきやがるし面倒臭いけど、けっこういいとこもあるんだよ。王宮に忍び込めたら宝物庫からなんでも好きなの一個くれる、ってのはまあ冗談半分っつーかお遊びみたいなもんでさ…」
「そうじゃなくて。お前、確か破滅的に音痴だったよな?」
ヴィエラの耳が痙攣してガリフがヨロクラ立ち眩みをおこすくらいには。
ジャハラでのことを思い出して頷き、あ!と気がつく。
「お前の声だったことは確かなんだが。素晴らしく滑舌が良かったから妙に違和感があってな」
「改めて言われると腹立つ」
舌足らずはこれでも気にしてんだよ。
ちょっとばっかり美声だからって鼻にかけるような奴はこうしてくれる。ぐりぐりぐり。
「あいたたた…。こら、事実は直視しろ」
「たまには曲がって見たくもなるんだよ。…でも確かにおかしいよなぁ。もういっぺん歌ってみようか。かぜおまつばらのとげ、はるかとーく…」
ガッ!
二人して額を押さえて悶絶する。
聞くに堪えないからって問答無用で頭突きは酷くないか。口で言えよ口で。
この鉄頭!デコっぱち!おお、痛てぇ…。
「もういい。充分だ。歌なんか歌えなくてもいい。お前の唇は俺とキスするためにあるんだよな」
「凄い破壊力なんだな、俺の歌。取り敢えず今ここに一人、気違いを生んじまうくらい惨いんだ」
バルフレアの軽口に軽口で返したヴァンは、クリスタルの熱が触れた唇を舐めた。水と炎のクリスタルに触った時も感じた、無機質のものとは思えないほんのりとした暖かさ。内包するミストが凝縮されて熱を持っているのだろうと思っていたが。喉を熱く焦して舌を痺れさせたのは、己の口を通して迸った歌は、クリスタルそのものだったと思う。石そのものが生きている、命を持っているような。
ピリリ、と小さな音がして無線からパンネロの声がした。
『ヴァ……、て…ッ!…フランが……』
地上だというのにノイズが酷く、加えて相当慌てているのかパンネロの声も上ずって聞き取り辛い。聞こえない、と返そうとした時。突然、横合いからぶつかってきた何かに吹き飛ばされた。
受身を取る暇も無く数メートルほど転がって、すぐさま立ち上がろうとすると同じように地面に這い蹲ったバルフレアに怒鳴られる。
「屈んでろ!」
言葉を聞くか聞かないかで、頭上を再び突風が吹きぬけていく。いや、風ではない。夜目にもはっきりと解かる黄金色の帯は具現化したミスト。ヴァンは前傾姿勢のまま立ち上がって空を仰ぐ。おびただしい量のミストが凝縮と膨張を繰り返して赤褐色の斑紋を描いている。
そこだけ見ればギルヴェガンに似ているが、決定的に違うことはゆっくりと停滞しているのではなく渦を巻いてうねり生き物のように蠢いていることだ。
城壁に一斉に火が焚かれ、俄かに騒がしくなる周囲に呆気に取られていた二人は我に返った。
「まずいな…」
「どっちが」
衛兵が集まって来ることか、それとも頭の上の異常事態か。
「両方だ」
とぐろを巻く蛇のようにうねる空を見上げるバルフレアの表情は嶮しい。ミストの濃化現象が収まるならまだしも悪化するとは…、やはり首輪の飾りにされたり餌入れにされたり粗略な扱いをされた恨みか。途切れたままの無線からはもう耳障りな砂嵐しか聞こえない。
やれやれせっかちな女神様だ。
…と言いたいところだが、待たせたのは地上の人間の方だろう。
時の砂に塗れて、摩滅していくのは命だけではない。受け継がれるべき伝承は途絶え、歌を紡ぐ者も無く、祈ることをも忘れてしまう。
すぐ隣を走る少年の頬が強張っているのに気づいて、背中を叩いた。
「お前、また口あけてたな」
虚を突かれたヴァンだったが、すぐに意味を飲み込んで憮然とする。黙っているのも癪なので「キスは?」と問う。地面に食い込んだアンカーはだいぶ引き摺られていたが、しっかりとシュトラールを繋ぎとめている。
「…後でな」



熱いのと冷たいのとではどうしてこんなに違うのか。
冷え切ったミストの充満していたギルヴェガンでは平然としていたフランは、今や暴走寸前のチョコボ状態だった。共に土のクリスタルの台座を修繕していたパンネロは、長身のフランを支えて操縦室の後部座席に座らせる。
「フラン…」
「大丈夫、貴女も席に、着き、なさい。危ないわ」
朦朧としているのか声音はうわ言めいていた。
ひんやりと体温の低いはずの身体は火がついたように熱く、息遣いは徐々に乱れてきている。通信機も無線も通じなくて、もし今フランがとっちらかってしまって操縦室内でサマーソルトキックなんぞかましてしまったらどうなることか。自分ひとりで抑えきれる自信はない。
最悪の事態を想像して殆んど泣きそうになっていると、やっと外に出ていたヴァンとバルフレアが帰って来た。
「バルフレアさん、フランが…っ!」
「シッ!…お嬢ちゃん大声は禁物だ。今のフランは感覚神経が抜き身のまま外に出てるようなもんだ。少しの刺激を何十倍にも感じてる」
「大変じゃないかっ!」
声が大きい!
バルフレアとパンネロ、双方から器用に小声で怒鳴られてヴァンは小さくなる。
傍にいることも気配だけでフランを刺激することになるから離れた方がいいのだろうが、目を閉ざして肘置きに爪を立てて堪えているのを見るととても離れられない。パンネロは席には着かず、フランの隣に座り込んだ。
「…俺もそれほど得意なわけじゃないんだがねぇ」
漆黒のクリスタルは空に渦巻いているミストと呼応するように中心を蠢かせ、真っ赤な文字をじわりと滲ませた。
「地を奮わせる鬨と蹄を、黒鉄の騎士の御剣に平らげ、おおやがて満ちる時の砂
うつわ溢るる深き眠りに、いま一期を告げる鳥よ、暁闇の…」

―――――黒きうねりに

鼓動して脈打ち、赤く解けた細い糸が吸い込まれた。
眉間に。
「微妙だ!どうしてあと数センチ上に行かないんだ…っ!」
「やめて、ヴァン。やめてよ。可哀想だよ!」
何とははっきり言われなかったものの、パンネロの可哀想だよ!はまごうことなく己に向けられているんだろう。余計傷ついた気分でバルフレアは操縦席に座った。
「ヴァン、隣に来い」
「え…、だ、だけど、そこって」
フランの指定席だ。
躊躇は一瞬だった。バルフレアが返答を待たず巡航体制から高速飛行に切り替えたため、席に着くなり背中を打ちつけたが文句は言わずに口をつぐむ。ぐるん、と船首を北東に向けて可動式両翼を広げた。
絡みつく黄金色の帯を引きちぎって高度を上げる。
フロントガラスいっぱいに拡がった光景に、パンネロは小さく悲鳴を上げた。
「何で?クリスタルは正常な働きを取り戻したんじゃなかったの?」
「もしかして俺達がやったことって手遅れだったのか?」
ロザリア帝国から大砂海を渡って平原を越え砂漠へ…、見渡す限りに黄褐色に澱んだミストが具現化している。所々は爛熟した薄紅色が見え、ギルヴェガンの上空に漣を連ねていた赤い帯のようになっていた。
「いや、俺達は『間に合った』んだ。ぎりぎりでな。
…それぞれのクリスタルの役割は地上に溢れかえったミストを吸収し、複合崩壊やヤクト化を防ぐために身の内に押し包むことがひとつ。あともう一つの役割は」
「何百年、何千年に渡って吸収し続け溜めに溜めたミストを昇華すること。
夜光の砕片の暴発、暁の断片の複合崩壊、天陽の繭の解放。器は一気に限界値に達してしまったのよ」
フランは肘置きを掴んでいた手を緩め、触れていいのかどうか迷っているらしいパンネロの手を握る。愁眉を開いて頷き返すヴィエラの表情を見て少しは安心したようで、少女は乗り出していた身体をベルトで座席に固定した。
計器を睨む視線はそのまま、声を低めて「無理はするなよ」と耳打ちする相棒に、「今無理をしないでいつするの。…貴方、正確な場所の見当はついていないんでしょ?」とぎこちなく唇の端をつり上げたフランは、ふらつく上体を真っ直ぐに伸ばして目を閉じた。
シュトラールは高度を徐々に上げながらバレンティア大陸の北、小規模のプルヴァマ群のある空域へとさらに加速した。
土のクリスタルは地下に安置されていたのではない。もっとも北に位置するグラウス空域のプルヴァマだ。
クリスタルが安置されていた土地は、それが内包するミストの限界値をはるかにこえて溢れ出した時、辺りに漂う微弱なミストをも巻き込んで濃化現象を引き起こした。プルヴァマにも同じことが言えるはずだ。
「わかるか」
隆起して蠕動する半透明のミストはどんどん規模を拡大している。
ヤクト対応型の飛空石を積んでいるシュトラールだからこそ墜落せずに飛べているのだ。
通信機や無線がすべて駄目になっているから現状は把握できないが、これ以上空全体に拡がってしまえば飛行中の他の飛空艇は制御不能に陥るかもしれない。
フランはミストの波に飲まれそうになっている島々には目もくれず、真っ直ぐに星空を指差した。
「ちょいと荒っぽい飛行になる。ヴァン、コンソールパネルから目を離すなよ!」
水平飛行からグッと船首を上向け垂直上昇、両翼の補助推進器と六基のグロセアエンジンの出力制限を全て解除する。
身体にかかる重圧が増して、背中が座席に押し付けられる感覚。水平飛行とは比べ物にならない、下へ、大地へ、引き下ろす力と高みへ上ろうとする力の両方が肩を背中を圧迫する。
「到達高度20000…35000…50000…!バルフレア!まだ上るのか!」
「フラン!」
「まだよ、まだ見えないっ」
ぎしぎしぎし、と機体が軋む音がする。万力で支える操舵が、気を抜くと左右に振り切れそうだった。これほど重い手応えは経験が無い。浅く呼吸するのさえ辛い重圧を堪えながら思う。
『滄溟の大滝』と同じだ。伸るか反るか、挑むか退くか。
これ以上の高みを飛んだことは未だ嘗て無い。
…クソ親父はシュトラールでプルヴァマからあのクリスタルを持ち帰ったんだろう。だったら…。
あの男にできて俺にできない道理があるか!
渺茫とした星空と大地を一閃する黎明の光が、太陽と月の境に両翼を広げたシュトラールを照らし出す。
「…ッ!見えたっ!」



青に赤に白に黒に。
いくつもの光を抱えて揺れる揺り篭のなかには、たくさんの命が流れている。
廻る円環の縁から溢れる、憤り、悔恨、悲嘆、糾明、慙愧、失望、諦念、渇望、希求。繰り返し繰り返し淘汰され、やがて零れる。
叶わぬ祈りも、報いなき愛も、隠されたまま熔けおちた悲哀も。
晩鐘の音に耳を傾け、鍛えた翼を羽ばたかせ、夜に日をついで翔け抜けよ。
暁闇の空を仰げば、満ちる時はもうすぐそこに。

さあ、夜明けの歌をうたおう。




ピリリ、ピリリ、という音に目を覚ます。
首をめぐらすと顎にふわふわしたプラチナゴールドの髪が触れた。上体を乗り上げるようにしてうつ伏している。眠りが浅かったのか、身じろぎして隣に寝かせようとすると「うー…」と唸ってむずかった。
仕方なしに片腕だけでどうにか枕元を探り、通信機を引っ張り出す。が、音が鳴り止まない。
「おい、ヴァン。お前のも鳴ってるぞ」
「だれらこんにゃあしゃっぱらかぁあ」
いつもに増して呂律が回っていない。
ヴァンは「こら、全部とってくな。俺が寒いだろうが」と文句を言うバルフレアに構わず、ブランケットに丸まったまま芋虫のように自分の脱ぎ捨てた服を拾いに行く。
「……どちらさん?」
「もしもし〜」
『私よ。アマリア。調査に出たきり報告も何も無いものだから心配したのよ?
今何処に……、…まあいいわ。それで?一昨日の明け方三大陸全域で膨大な量のミストがいっぺんに消える現象がおきたんだけど。あれ貴方がやったの?』
『おはよう。もしかしなくとも寝ていたな?もうお日様は中天を越しているぞ、ヴァン。
…君達、ここ一週間ばかり行方不明だそうじゃないか。君の船の機工士が泣いて私に電信してきたぞ。「モグがあんまりガミガミ怒ったからヴァンとパンネロが家出しちゃったクポ〜!」とな』
それぞれの依頼主に「ああ」とか「うん」とか寝ぼけた返事をする二人。
船内の狭いベッド、薄いブランケット。それでも抱き合っていればそれなりに極楽だ。
二度寝してしまいそうな心地よさにトロトロしていると、二つの通信機から憮然とした声で奇しくも同じセリフが聞こえた。
『貴方達いったい何をやっていたのよ?』
『君達はいったい何をしていたんだ?』
眠気に潤んだ曙陽の瞳と、柔らかに微睡んだヘイゼルグリーンの視線が絡み、互いに見詰め合って笑った。
「「世界を救ってた」」













end
2011.05.01(再掲)


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