B.I 607年 ダルマスカ王国 王都ラバナスタ_____


目が覚めてすぐ視界いっぱいに拡がる空は、窓際から入る薄い檸檬色の光を受けてぼんやり滲んで見える。
何度も剥がれては張りなおされているし、古いものだから多少よれよれして角が曲がっているが、この空がとても好きだった。少し黄ばんだ白い紙の上に青い塗料で描かれた贋物でも。
「ヴァン、早くしろ。朝飯喰いそびれるぞ」
寝返りを打つと、鏡の前で寝癖を気にしながらサッシュを巻いている兄の姿が見えた。この頃ぐんぐん背が伸びて、差が益々開いてしまったので背中を追い駆けるヴァンとしては面白くない。
本当ならもうアカデミーに通える歳なのに、レックスが未だに家の手伝いをしているのは、何も無理に引き止められてさせられてのことではない。俺は15になったら騎士団の入団試験を受けるんだ、だからそれまではくらいはせいぜい親孝行に励むよ。そう言って今も両親を手伝って、ミゲロの雑貨屋の仕出しやバザーの売り子、他の店の御用聞きまでやっている。
自分は二番目だから関係の無い話だが、てっきりアカデミーに通うものだと思っていただけに、ある日いきなりそう打ち明けられてヴァンはびっくりした。驚いたけれど、結婚するまで用心棒稼業をしていた母を相手に日頃から剣の鍛錬に余念が無かったことを思い浮かべると、まあ、それも有りかな、と納得した。
騎士として身を立てることはけして悪いことではないはずで、むしろ成れたら名誉なことなのに。ヴァンにはどうしてそれが孝行にならないような言い方をするのかわからなかった。
騎士に成ると言うことは家を出ると言うことで、王に剣を捧げることは国の為に身を削ることで。時局を鑑みれば兄が選択した決断の意味が、どういう重さを持ったものなのかわかっただろう。だが、それをわかれと言うにはヴァンは幼すぎた。愚かと言っていいほど無知だった。
母親は見たことが無いくらい嶮しい表情で食卓の上に組んだ両手を見つめ溜息を吐いた。暫くして「仕方ないね。あんたは言い出したら聞かない子だから…」と言うのを聞いて、年老いたチョコボが一羽と継ぎ接ぎだらけの荷車しかない家を振り返って、寂しそうに肩を落とした父親を「俺だって居るんだしさ」とわからないなりに励ました。
物情騒然とした世情もまだ遠く、明日は今日の続きだと信じていた。
「母さんと父さん、今日から西へ行くキャラバンに同行するんだって」
だらだらと朝寝の気持ちよさに浸ってブランケットの中で丸まっていたヴァンは、その一言を聞いて飛び起きた。
「えー!?俺も行きたい行きたい行きた…」
「駄・目・だ!俺達は留守番」
断言されて一瞬押し黙った後、猛然と隣をすり抜けて部屋を出ようとするヴァン。先刻承知で待ち構えていた足に、足を引っ掛けられて転ばされる。びたーん、とすっ転んで床と仲良しになったヴァンが「何すんだよ!いきなり!」と怒鳴るのもどこ吹く風と聞き流した。
「行きたい!俺も!」
「そう言うだろうと思ったから、母さんと父さんが出るまでお前を寝かせといた」
さらっと意地の悪いことを言われて、慌てて窓を開けて下を見る。いつも繋いである荷車が無い。納屋から聞こえてくるはずの、子飼いにしているチョコボの鳴き声も聞こえない。
窓の桟に手をかけてへなへなと座り込み「う〜〜」と唸ると、苦笑と一緒に手に平が頭の上から降ってきた。癖っ毛をかき回すように撫でられて、拗ねた気分で見上げる。
「朝と昼はミゲロさんの家で食わせてもらえってさ」
嫌な予感がして顔を顰め、恐る恐る「夕飯は?」と聞くと、ヴァンがベッドから蹴り落としたブランケットを拾って丁寧に畳みながら、にっこりと笑いかけてきた。
「…後でいい所に連れてってやるよ、ヴァン」
「ぎゃー!?いやだーっ!やっぱりー!!もうヤダからなっ!俺は囮になんか…っ」
「馬鹿だなー、ヴァン。兄さんがいつもいつもお前にばかり酷い役をやらせるわけないじゃないかー」
笑顔が嘘くさい。
そう言ってこの前の狩りでも俺にデコイをかけて、瀕死になるまで転がしたまま放っといたくせに。
青息吐息のヴァンをおぶって「勿体無いから」という理由でクリスタルに辿り着くまでポーションどころかケアルの一つも唱えてくれなかったのだ。疑いの目で見たくもなる。そんな「酷いよ、疑うなんて…っ!」って顔は後ろ暗いところが無い人がやるから効果的なんだ。兄さんがやっても…やっても…、………、
「…本当に?もうしない?」
「しない、しない」
ヴァンは過去何万回と繰り返された応酬にも懲りず、今回もまた「わかった。ついて行く」と頷いた。
ああ、もう、こいつは…っ!
つんと尖った唇の辺りにまだ拗ねている雰囲気が残っているが、素直に頷いたヴァンにキュンとときめいてしまって、無言で中身の軽そうな頭を髪がぐしゃぐしゃの鳥の巣になるまで掻き撫で回す。単純と言うか馬鹿と言うか…、本当にこんな素直で可愛くていいのかと、将来が心配で胃が痛くなるくらいアホ可愛い。
「おはよー!レックス、ヴァン、起きてる〜?」
玄関の方から聞こえてきた幼馴染の声に「起きてるー!」と返事を返して威勢良く部屋を飛び出して行こうとしたヴァンは、またもや横合いから伸びた足に足首を引っ掛けられて床とキスした。
「着替えて、顔洗って、歯磨いて、それからだ」
「…はーい」
ぞんざいに顔を洗って鏡の前に立ち、寝癖だらけで鳥の巣になっている髪を乱暴に手櫛で整える。毛先が開いて、そろそろ換えどきか、と思いながら口の中に歯ブラシを突っ込み、締め切っていた窓を開け放った。玄関の方からレックスが少女を家に招き入れる様子が見えて。ヴァンは世の中、不公平だなぁ、と顔を顰めて口を漱いだ。
硬い鋼色をしているのにさらさらした直毛が、柔らかい朝の日差しの下で淡い天使の輪を浮かべているレックスの髪。
本人は細い髪質が気に入らないらしく、将来ハゲそうで嫌だと言っていたが。ぱさぱさして奔放に跳ね放題の癖毛よりはマシじゃないか。
毎朝、海栗か玉蜀黍かと言うような爆発頭をどうにか梳かすのは骨だ。
女の子じゃあるまいし、とも思うが苦労の無さそうな兄や幼馴染が少しばかり羨ましいヴァンだった。
「ヴァンったら、また髪も梳かないで起きて来たの?」
「うるせーなぁ」
梳いたけど収まらなかったんだよ。
きっちり髪を編み上げて来た少女は「仕方ないわね」と溜息を吐くなり、乱暴にヴァンの頭を後ろから鷲掴みにした。犬の仔でも扱うようにしてぱさついた髪に櫛を入れる。細い櫛で前髪を引っ張られ、放っておくとぶちぶち毛を抜かれそうな痛みに慌てて手を振り払った。
「……。髪に櫛が刺さるって、あんた、どんだけ…」
折れてないでしょうね、とヴァンの頭に刺さった櫛を取って検分する。
失礼な幼馴染の態度に「何しに来たんだよお前!」と怒鳴ろうとして、彼女の格好がいつもと違うことに気がついた。
「そうか、明日からパンネロもアカデミーに通うのか」
もうそんな歳になったんだなぁ、と三つしか違わないはずなのに感慨深げなレックスに見つめられて、パンネロは少し恥ずかしそうにスカートの端を引っ張った。見習い騎士のような制服は無いが、アカデミーの生徒も式典の際には正装として決まった礼服を着る。
活発な服装ばかりを好んで着ていたパンネロが急にスカートなど穿いて来るものだから、ヴァンは何となく落ち着かない気分になった。せっかく寝癖を直した髪を、くしゃっと片手で掻く。
「お前、学校なんか行くのかよ。踊り子になりたいんじゃ無かったっけ?」
「いろいろ経験しなさいってパパが言うから。でも踊りのお稽古も続けていいって」
「ヴァンもなぁ、行きたいなら行っていいんだぞ?俺が行かなかった分、貯えはあるんだからさ」
「嫌だよ。俺は手伝いだけで忙しいの!それに学校なんて行ってたらターミナルの整備工の仕事、間に合わなくなるじゃん!!」
俺は空賊になるんだからそっちのが大事なの!
仕事、と言っても任されるのは荷物の運搬係ばかりだが、それでも行き来する飛空艇に囲まれているだけで嬉しい。二番目の気楽さと言うのか、頭から学校に行くことを考えていなかったヴァンは、さほどアカデミーに興味は惹かれなかった。
「これ、ミゲロさんから預かって来た」
パンネロがここへ来る途中に預かって来たと言うバスケットの中には、きっちり布で包まれた荷物と、焼きたてのパンと茹で卵が入っていた。さっそくパンに手を伸ばして三等分に切り分けるヴァンを見て、パンネロは鍋に残ったスープを温めなおした。ついでに庭に生った野菜を採ってサラダを作る。勝手知ったる他人の家。勝手口から庭へと出て行ったパンネロが好きなように畑から採って来た野菜を切り始めても、二人は何も言わない。
両親が行商で忙しく家を空けることの多い彼らは、小さい頃からこうしてお互いの家で食事をすることが多かった。
レックスはメモと荷物とを交互に見て、それぞれの配達先を確認した。
このくらいならヴァンと二人で手分けすぐに廻れる。御用聞きに伺うついでに済ませてしまうか。
「今日も地下水路にキラーフィッシュ狩りに行くんでしょ?私も行きたい」
「そんなひらひらした格好でか?無理無理。足手まとい」
「着替えてくるわよ!あんたには聞いてないの、私はレックスに聞いてるの」
「んー、大所帯で行って獲物に逃げられるのもなぁ」
今日はトマジとも一緒に行く約束をしているし。
苦笑して「今度また行こうね」と言われ、パンネロは頬を膨らませつつも不承不承引き下がった。これまたヴァンには面白くない図だ。自分が駄目出しした時には素直にウンと言わなかったくせに。
不貞腐れてパンを齧る幼馴染の膨れっ面を見て「ほら見ろ。駄目って言われた」と憎まれ口を叩くと、無言のまま食卓の下で足を蹴られた。すかさずヴァンも蹴り返す。
「…?どうしたんだ、ヴァン」
水面下の激しい攻防を知らないレックスは首を傾げた。
コッカトリスの肉とトマトをとろとろに煮詰め、香味野菜を添えた半透明のスープはそのままで食べるには子供に舌には辛すぎる。パンを浸して食べていたヴァンは、平然とそれを匙で掬うレックスをしげしげと見て、皿ごとそれを口へ運んだ。次の瞬間には頬を真っ赤にしてゲホゲホと咳き込んでいた。
「お前、本当にどうしたんだ?」
「…別にっ」
刺激に喉を痛めたのか絞るような痛々しい声だ。
噴き出して真っ赤になった口の周りを、まるで小さい子にする仕草で背中を擦り、ごしごし拭われて別の意味でも頬を紅潮させたヴァンは「もういいって!止めろよ!」と狼狽した。
「ガキ」
「なんだと!?」
とうとう口喧嘩を始めた二人を交互に見て、レックスは困ったように頭を掻いた。
仲が良すぎて喧嘩ばかりしている。その気になれば誰より分かり合えるだろうに。
胃の腑を冷ます香草茶に砂糖を山ほど沈めながら、いつになったら意地の張り合いから卒業してくれるのかな、と苦笑した。もしかしたらその頃には自分はこうして彼らの傍に居ることはないかもしれないが。
ふ、と溜息と言うには軽い息を吐いて、香草茶を飲み干した。
熱の篭った食道がサーッと冷めていく感触が心地いい。
氷なんて贅沢品は滅多に手に入らない。どこの家の庭先でも栽培している香草は、太陽の恩恵を受けるダルマスカにおいて清涼を得るには欠かせないものだ。
ダルマスカ騎士団は主に王都周辺の領土に駐屯しているが、先ごろ国境警備へいくつかの部隊が移動することになったとパンネロの兄達が言っていた。もしかしたら見習い期間も無く、そのまま戦線に臨時登用されるかもしれない。重苦しい口調で「レックス。今、ダルマスカ騎士団の一兵となることがどういうことか、わかっていると思うが覚悟だけはしておいてくれ」と言い残し、彼らは国の騒擾を表すようにピリピリと張り詰めた気配の漂う国境警備部隊へと配属されて行った。
ナルビナ城塞か、モスフォーラの駐屯基地か…。
うっすらとだが、確実に目前に迫ってきている岐路を前にして二の足を踏みそうになっている。騎士に成ると両親の前で宣言して、一番目に生まれながらアカデミーに通わないことで逃げ道を無くしたはずが。
我ながら煮え切らないことを考えていると思う。
「思ったより、嫌じゃないな」
こんなふうに今更ぐちぐち迷っている自分も。
自分の後ろ向き思考はよく自覚しているから、きっともっとみっともないことになりそうだと思っていたけど。
何も今、騎士にならなくてもいい。取り敢えず両親の意を汲んでアカデミーに通ってしまえば。そういう日和見も打算も選択の内だ。
だが傾きかけた船には新しい櫂が、一人でも多くの漕ぎ手が必要なはずだ。ダルマスカの騎士になりたい。国と家族を守りたい。それなら、今だからこそ決めなければと決断した。
…こうしてこれから先もことあるごとに何度も迷って振り返って、何かしら引きずりながら先に進むんだろうなぁ、俺は。
ヴァンはどうだろう。暇さえあればアホみたいに口をあけて空ばかり見上げてるけれど。まず手が出て足が出て、後から追い追い考える、ってとこか。糸の切れた凧にならないためにも、パンネロみたいにしっかり地に足のついた腰の重い子が一緒に居ていて欲しいんだが。
「…当分、先の話か」
一先ず目の前の食事に専念することにしたのか、ヴァンとパンネロはお互いにそっぽを向いたままパンを齧っている。
隣で眠る弟を揺すり起こして、幼馴染と朝ごはんを食べて、家の手伝いをして、配達に走って、御用聞きに廻って、くたくたになった身体を寝床に横たえ、四角く窓に切り取られた空の星を数えながら寄り添い合って眠りにつく。あと僅かばかりの日常を、このまま安穏と過ごせたらいい。
「レックス、どうしたの?」
「…兄さん?」
いつの間にか二人してこちらを伺っている。
なんでもない、と返してヴァンの頭をぽんぽんと軽く撫でた。ついでに後ろの方に残った寝癖を撫で付けてやる。ガキ扱いするなというふうに頭を振られて、せっかくパンネロが梳いてくれたのに、また乱れてしまった。
パンネロのような蜜の甘さは無いが、光を受ければ金色に透けて見える。
「砂漠には七色あるんだ」
真率な表情になったレックスが俄かにヴァンの頬の辺りを触って、髪を一房ひっぱった。
「な、なんだよ、急に…」
「いいから、黙って聞け。
白、黒、茶色、赤銅色、緑、灰色、琥珀色。ダルマスカの砂漠は何色だと思う?
お前と同じ琥珀色だ。少し曇った薄い琥珀色。…ヴァンの髪を見ていると、砂漠を思い出す」
剣を捧げ命を懸けて守ると決めた、祖国の色だ。
「…美しいと思うよ」
どこへ行くことになってもヴァンを忘れなければ、ダルマスカをすぐ傍に感じることが出来るだろう。家族と、兄弟と、友人と過ごした、この暖かな日々を思い出せるだろう。どこか遠くで死と向き合うことになっても、その死が酷く寂しいものだったとしても。心がこの色を忘れなければ、俺は独りじゃない。満たされて、最後まで戦える。信じている。
幼馴染が目のやり場が無いと言わんばかりに視線を逸らす中、微笑みながらとんでもなく痒い科白を吐いた兄に、弟は頭から爪先まで服を突き抜けるかと思うくらいの鳥肌を立てて固まった。
癖っ毛どころではないトラウマを抱えた瞬間だった。





B.I 704年 春 ダルマスカ王国 王都ラバナスタ_____


「ヴァ〜ン〜。そろそろ起きろ。パレードに間に合わないぞ?」
二つしか違わないはずなのにこうして健やかな寝息を立てているのを見ると自分よりずっと幼く思える弟の寝顔。レックスは苦笑してそのベッド脇に腰掛けた。
窓を開け放って日の光を入れたので、寝ているところにいきなり燦燦とした太陽の洗礼を受けたヴァンは思いっきり顔を顰める。
毛布の下に潜ろうと足掻くのを押さえ込んで、ぎゅっと瞑られた金茶の睫毛に唇を落とす。睫毛と瞼の際を擽られるむず痒さに跳ね起きたヴァンは「それやめろって何度も言ってるだろ!!」と怒鳴った。
寝癖で盛大にはねまくった髪を不機嫌そうに手櫛で乱暴にかき回す。相変わらずの癖っ毛だ。数年前まではこの癖毛とレックスの直毛とを比べてぶつぶつ文句を言っていたが、ある日を境にヴァンは気にするのを止めた。…というか、わざと櫛を通さずくしゃくしゃにしておくことが多くなった。
不思議がって聞くとじっとりした目で睨まれ「…女じゃあるまいし綺麗だなんて褒められたってぜんぜん嬉しくねえもん」と突っ慳貪な物言いをされるのだ。
自分の言動のせいとは思い及ばないレックスだが、ここで「そうやってくしゃくしゃにしてるのもヒヨコみたいで可愛いな」とは流石に言わなかった。
「別に俺、パレード興味ないもん」
「そう言うな、今日はせっかく仕事を休んだのに……なあ、ヴァンは兄さんと出かけるの嫌か?」
不貞腐れるのを宥めていたレックスがしらじらしくも悲しそうに言うと、露骨にうろたえた表情で「そ、そうじゃない、けど…」ともごもご応えるヴァン。
もう14…もう少しで15になろうと言うのに、兄の些細な嘘も見抜けないとは些か馬鹿正直すぎるのでは、と心配になる。
がそれでも貧民窟で育ちながら曲がらずひねもせず、いい子に育ってくれているのは嬉しい。
たまに頭で考える前に行動して顰蹙を買ったり、不適切発言をかまして大失態を演じたり、も身内の欲目か可愛いところだと思えてしまう。
そんなヴァンに対してベタ甘なレックスの方が、実は周囲からブラコン嫌疑をかけられ胡乱な目で見られているとは露知らず。今日も一方通行な兄弟愛全開のレックスは、ふくれっ面のヴァンを連れてパレードで賑わう大通りへ向かった。
どうにか間に合って、目の前を通り過ぎるラバナスタ王女アーシェ殿下とナブラディアの王子ラスラ殿下の御輿を見ることができた。二人とも眩しいばかりに美しく、その顔は最良の日の幸福と将来の展望に輝いていた。空に撒かれた羽根の舞う中を笑顔で民衆に手を振っている。
この結婚には王子王女の幸福を願う以上に、ダルマスカとナブラディアの両国の結びつきをより強固にし、今以上に協力して互いの国を守っていきたいという政略も働いていた。

守るため。

そう、この「結婚」はそれぞれの国を『守る』ための「結束」。
ダルマスカには王位継承権を持つ王族は王女アーシェ殿下をおいて他にいない。8人の王子のうち5人は今や亡国と成り果てた東の同盟国ランディスでの戦乱にて戦死し、他の3人の王子も流行り病をえて長い闘病のすえ病没した。現国王は高齢で国は一刻も早く後世を継ぐ存在を欲していた。
同じく流行り病で両親を亡くしたレックスは、当時14歳。弟は12歳だった。
泣いている暇など無かった。
パンネロの両親が助けになってくれたが、全て面倒を見てくれるわけじゃない。
弟と二人で困窮に喘ぎながらも懸命に生きてきた2年。もうすぐ3年になる。
もうそんなに経つのか、と矢の如く過ぎ去った年月を考えながら、悲しむ間もなく生活に追われてまともに弔うこともできなかった両親を思い心を痛めた。
「チョコボ!兄さんあれ、あれ、ゴテゴテしてるけどチョコボだろ?」
いいなぁ俺も乗りたい、と主賓よりも乗っている御輿のチョコボに目が釘付けのヴァン。
レックスは苦笑しながら、自分はこの弟に救われて辛くても悲しくても負けずにやってこれたのだ、と改めて感じた。
アルケイディア帝国の擁するバレンティア大陸と、ロザリア帝国が支配するオーダリア大陸に挟まれ、日増しに増大する圧力は真綿で締め上げるようにゆるやかに、しかし着実にダルマスカに脅威を及ぼしていた。
貿易・交通・経済の要として発展してきたダルマスカ。
その開放的な国柄もあって人種・宗教・民俗問わず様々な亜人種との協和からさらに多くの知識や技術面の拡充を得ていた。古くはガルテア連邦を築いた創祖レイスウォールの直系を連綿と血に受け継ぐダルマスカ・ナブラディア両王家の血統と伝統を今に受け継ぎ、歴史を内包しながら今も二大陸最大の貿易の要衝として興隆し続けるこの国の存在は、二大国の領土拡張思考を刺激するには充分だった。
国の成り立ちや性質上、軍事大国である両帝国と張り合うには国力も軍事力も及ばないダルマスカが生き延びるためには、周辺諸国…つまり同じく大国の脅威に晒されている同盟国ナブラディアとの繋がりを強くするしかなかった。
幸いにして両国の王子、王女は適齢でありまた互いの心象も良く、結婚の話はすぐに纏められた。遠い昔に別れたバナルガンとヘイオス。一つの血統を分け合う二つの兄弟国が再び手を携え強固な繋がりを持つことになるのだ。
ダルマスカとナブラディアの未来を背負った二人。
自分と同い年の彼らの背負う重責を思うと、平民の身でおこがましいとは知りつつも希望を託すだけではなく、激励したい気持ちになる。
「兄さん…?」
熱心に拍手する民衆に倣って拍手しながら、隣を見たヴァンはレックスのいつになく思いつめたような真剣な表情に驚いた。
てっきり皆と同じに明るく笑っているのだと思ったのに。
聞こえなかったのかヴァンの呼びかけにも応えず、じっと御輿が通り過ぎるのを見守るレックス。
重ねて声をかけるのは躊躇われて、ヴァンはただその横顔を見ていた。





B.I 704年 秋 ダルマスカ王国 王都ラバナスタ_____


ラバナスタは季節外れの雨が降り続いていた。
まだ雨季の訪れは遠いはずなのに珍しく朝から延々と降りしきる雨と空を押し潰す雨雲に、自然と心まで重くなるようだ。
明日は晴れるだろうか、ヴァンと墓参りに行く約束なのに。
王城の三の郭へ続く大手門から脇道に入った路地で、閉じた店の廂を借りてホッとひと息ついた。埃と泥に汚れた見習い騎士の制服の裾を絞り、片手で顔を拭う。途端に顔を顰めたレックスは掌に嵌めたままだった騎鳥用の手袋を脱いだ。固い生地で作られたそれは、じかに皮膚を擦ると、それはもう痛いのだ。うっかり失念して頬や鼻の頭に赤い擦過傷をつけてしまう新兵が多くいる。何事にも注意深く卒が無いレックスでさえも。
「これは帰ったらヴァンにからかわれるな」
いや、訓練で少しとは言えチョコボ騎兵でも無いのに騎鳥に乗ったと知ったら口惜しがるのが先か。人や物資の運搬用に飼われているものとは格段に体格も膂力も上回る容貌魁偉な勇姿は、それほど騎兵に拘りの無いレックスから見ても惚れ惚れするものだった。
濡れ髪を掻き上げて苦笑したレックスは、ふと背後にした路地の奥から聞こえた声に足を止めた。
「…っふ、え…っヒック…」
泣き声だ。
子供の、それもまだ幼い。
レックスが近付くと、怯えて頭を抱えてちぢこまる。
5、6歳かと思われる少女だった。こんな夜も晩い時間に明かりも少ない裏路地で一人きりでいるなんて。
「どうしてこんな所に?迷子かな?」
それ以上は近付かずに、しゃがみ込んでゆっくり話しかけた。
少女は応えずにぐずっていたが、レックスの背後を見て硬直する。
「おい、あんた。そのガキは俺んとこのだ」
振り返ると身なりの怪しい男が立っていた。何のためなのか棍棒を片手にこちらを睨んでいる。
おそらく人買いか女衒だろう。しかも孤児を狙って誘拐まがいの行為をする。
「この子はたった今、私が保護した」
「なんだと?」
「貴方がこの子の保護者であると言うなら話は別だが…」
「…そいつの保護者は俺だっつってんだ。四の五の言わず寄越しな」
ダルマスカ騎士団の徽章の刻まれた剣をさり気無く相手に示して、少女を見るとレックスを味方と判断してその陰に隠れた。
「私、こいつに攫われたの!ここへは無理矢理連れて来られて…」
少女の必死の訴えを男の怒鳴り声が阻んだ。
「黙れ!この糞ガキ…っ!!」
「黙るのは貴様だ」
棍棒を振り翳すのを一瞬、先んじてレックスの剣先が男の喉下にあてられる。
ギョッとした男は「い、いきなり市民に抜刀していいと思ってんのか」と弱々しく脅しつけたが、振り上げた腕を下げて後退する。
「市民と判断できる身分証を提示してみろ。あれば、の話だが」
「……っくそ!」
「ダルマスカでは王都ラバナスタに限らず周辺の街町でも人身売買は禁じている。このまま市警団本部まで連行されたいか」
ラバナスタの治安維持を管轄する市警団の名前を出され、蒼くなった男は捨て台詞を吐いて走り去った。
その方角と逃げ込みそうな地区のあたりをつけて犬笛を吹く。この時間ならまだ外回りの連中が市街地を警邏しているはずだ。都合がいいことに今日はチョコボ騎兵隊の訓練が行われたばかりで、まだ鳥厩にチョコボを返していない騎兵も屯所に詰めていたはずだ。身分証を偽造する頭も伝手も無い三下が逃亡できる穴などどこにも無い。
この手で悪漢を懲らしめることができないのは心残りだが、後は市警団や不寝番の見回りを務めている同僚達がうまくやってくれるだろう。
震える手でレックスの制服の裾を握る少女に、優しく話しかける。
「ごめんね、あんな酷い奴を懲らしめられなくて。
ここから先は市警団の管轄だから、一介の騎士団員には捕縛権が無いんだ。それに君を路地に放っては置けないし…」
「ううん、助けてくれてありがとう」
「どう致しまして。…集落というのはギーザの?」
レックスが問いかけると少女は首を振った。そして「もう無いの」と俯いた。
若い人の大半を戦に取られた集落は、ならず者の襲撃を受けて火を放たれ女子供は奪い去られた。もう、帰るところはないのだ、と。旅商人の旅団を頼ってラバナスタの東門まで辿り着いたが、そこでかどわかされたのだと言う。
改めて男に対して激しい怒りを感じたが、まずはこの子だ。
少女と手を繋いだレックスは、家とは逆方向の市街地東部へと向かった。
「ごめんください」
裏口の木戸から小さなノックと共に礼儀正しく聞きなれた声がし、閉店後の静かなカウンターで仕入れリストの確認をしていたミゲロは腰を上げた。
戸を開けるとずぶ濡れの少年騎士と幼い少女の姿がある。
白い息を吐いて震える二人を見下ろして器用につぶらな双眸を瞠ってみせた。
「おいおい、ずぶ濡れじゃないか」
「すみません、床を濡らしてしまって…」
恐縮するレックスにタオルを渡しながらミゲロはさも情け無さそうに首を振った。
「そうじゃないだろう。全く…可愛いお嬢さんを連れてるのに気の利かない奴だ、と言いたいんだよ私は」
なぁ、とミゲロに同意を求められた少女はビックリした顔をしながらも、くすくすと笑い出した。つられて微笑むと自分の水気を拭うのもそこそこに、少女のタオルを取って髪や衣服を拭いてやる。
甲斐甲斐しく世話を焼かれて少女の方が恥ずかしがっていると、ミゲロは黙って店の方に引っ込んだ。
そして戻ってきた時には盆に糖蜜入りの熱い紅茶と菓子を持っていた。
「外は寒かったろう。この辺の夜は冷えるからね」
服装の違いから少女を外国人と察したのか、そう言葉を添えて少女に勧めた。
少女は最初もじもじと遠慮していたが、レックスに促されてようやく菓子に手をつける。
「君の名前を聞いていなかったね」
「ファラシェです。騎士さま」
騎士さま、と呼ばれてレックスは照れくさくなる。
入隊して間もない新米の見習い騎士団員には過ぎた呼ばれ方だ。
「僕のことはただのレックスでいいよ。ファラシェ、僕はミゲロさんとお話があるから、少しの間いい子で待っててね」
おいしいお菓子を持ってきてくれたバンガを示すと、少女は大人しく頷いた。
二人は奥から静まり返った店内まで来ると、同時に深い溜息を吐く。
「すみません…またこちらにご迷惑を…」
「いや迷惑に思ってなんぞおらんよ。よく連れてきてくれたな。本来ならこれは市警団の連中の仕事なんだが、最近じゃこういう輩が多すぎてすぐには手が回らん様子でな」
「笛で知らせてあります。今日は屯所に訓練された騎鳥用のチョコボもいますし、同僚が外回りに出てくれてますので捕まえてくれるはずです。上官にはこれから僕が報告に上がります」
「そうか…。まったく、大事を控えた騎士団の…それも見習い騎士ですら腐らずめげず頑張っていると言うのに、市警団の連中はどうもいかん。中には『どうせ孤児が多すぎてどこの施設にも入れられないんだ』と言って黙認する馬鹿もんもおるくらいだ」
ミゲロが嘆かわしげに言うと、レックスもその事実に薄々は気がついていたのでやるせない思いに拳を握った。
「ファラシェ、というのは東方によくある女の子の名前だ。格好から言っておそらく東ダルマスカ砂漠のもっと先の辺境…。ギリギリでダルマスカ領だな。
もっとも、今では国領と言えるかどうかわからんが」
自嘲するミゲロにレックスは目を伏せる。
とうとうアルケイディア帝国軍に攻め込まれ鎮守の要であったナブディスが崩落したのは半年前。王都こそ蹂躙を免れてはいるが、兵力の大半を喪ったダルマスカは実質的に帝国に敗北した形となっている。戦前であればはっきり国境と言えた地域も今は帝国側に飲まれ、明確な境が無いのが現状だった。
「そんなに遠くから…」
故郷は今はもう無い、と言い切った少女の胸のうちを思うと更にやりきれない気持ちで一杯になる。
少女に限ったことではない。
こうした理由でラバナスタに流れ着く孤児は後を絶たないのだ。ラバナスタはバレンティア大陸とオーダリア大陸のちょうど中継地点。戦乱で乱れた規律のその陰で裏取引が行われている。人身売買などという澆季混濁を許してしまうほどに、ダルマスカの自治は荒んでいるのだ。
ラバナスタにも孤児がいる。戦役で騎士団の他にも募られ、徴兵でこそ無かったが止むに止まれず家族の為に戦地に赴き、命を落とす者が多くいた。
孤児院や施療院だけではとても賄いきれず、市民の有志…つまりミゲロのような大人の手によってどうにか面倒を見ている状態だ。
「半年前にはこんなことになるとは思ってもいなかったよ…」
悄然として肩を落とすミゲロは、カウンターの椅子に腰掛けながらレックスに向かいの椅子を勧めた。
半年前のあの日。あのパレードの日。
国中が熱狂し、将来の希望に惜しみなく拍手を贈った。
その希望の片翼を担ったラスラ王子はナブディスで帰らぬ人となり。ダルマスカの誇る騎士団の精鋭部隊は壊滅。若くして寡婦となったアーシェ殿下は心痛のあまりに臥していると噂で聞いた。
家で自分の帰りを待っている弟の言葉を思い出す。
「こんな時に一番苦労するのは俺たち貧乏人さ」
この頃、背が伸び横にも縦にも肉がついて逞しい身体つきになってきたヴァンは、囮にされてべそをかいていた昔とは比べ物にならない手際で獲物を狩るようになった。ナイフの扱いだけならば見習い騎士であるレックスよりも上手いくらいだ。そうして狩ってきた獲物を捌きながら言うのだ。
騎士団の連中も市警団の連中も戦うことばかりだ、と。
別に義憤に燃えている、というほどの熱意は感じられない言葉にレックスが詳しく聞き返すと、肩を竦めて返すには。
「ダルマスカ領がどれだけ侵犯されたかとか、戦火に焼け出された難民が押し寄せてくる中でラバナスタがまだ帝国から攻城略地を免れ蹂躙される野を出さなかったのは誰のお陰だと思っているんだとか、未曾有の国難を前に団結せよとか、市民の義務を果たすべき時だとか、犠牲になった者達のために…とか、いろいろ向こうの主張は解かるよ。
でもさ、犠牲になったものの数を数えてそれが生き返るのか?団結すべき人間って誰だ?お前らが未曾有の国難を前に見捨ててるダルマスカの領民なんじゃないのか?
今生きてて、貧しくってヒーヒー言ってる俺たちに何かしてくれるわけじゃない。孤児が出れば孤児院や施療院に放り込んで、それで終わり。金を寄付するわけでも維持費を倍出ししてくれるわけでもない」
淡々としていたヴァンは不意に顔を険しくすると、ダン、と音を立てて獲物を捌いていたナイフを突き立てた。
「内側から腐るみたいに弱っていく国なんかが戦争に勝てるのかよ。俺達を守りきれるってのかよ」
レックスは空賊にしか興味が無いと思っていた弟がここまで考えていたことに驚き、騎士団の一員として「すまない」と言った。
すると急に慌てて「兄さんは良いんだよ!ちゃんと考えてるし、いろいろ世話してくれてるし…ごめん生意気言って」と謝ってきた。ひとしきりペコペコし合ってあまりの滑稽さに二人で笑ってしまったが、ヴァンの言うことも一理あるのだ。
どうせ孤児が多すぎてどこの施設にも入れられない、と腐敗を黙認する市警団よりよほどヴァンの方が国を…ラバナスタを真剣に憂えている。
「あの子、どうなりますか?」
「…明日の朝、私が施設へ連れて行くよ。
一応、ねぐら位は確保できるはずだ。仕事ができるまでカイツとウチの店番をしてもらってもいいしね」
「そうですか……ありがとうございます」
ミゲロに頭を下げるレックスを「君は騎士団に入っても少しも居丈高にならないな」と苦笑され、ハイポーションのパックを渡される。
「頂けません、こんな…」
「いいから。本当はもっとよいものをたくさん渡してやりたかったんだが…。君も知っての通り戦争中で物資の流通経路が狭まっている上、この治安の悪化でこうしたものは特に手に入りにくくなっていてな。
…ヴァンから聞いたぞ。ナルビナの和平協定調印式にバッシュ将軍に伴して従軍すると」
無言でミゲロを見返すと、悲しげに肩を落としている。
先日、アルケイディア帝国から提示された和平交渉は名ばかりで、実際にはダルマスカに無条件降伏を求めるものであったらしい。国王ラミナス陛下はこれ以上の血が流れるのは避けたい、としてその和平案を飲んだ。そして敗北の地であるナルビナにて和平協定調印式が行われることとなったのである。
国王の一団がナルビナへ向かったのはつい先日。
しかし今になって不穏な噂が出回りだした。

"和平協定調印式において国王暗殺の策動あり"

ただの根も葉もない噂ならば良いとしても、調印式にしては仰々しすぎるアルケイディア帝国の兵員は噂を裏付ける要素としては充分すぎた。
大半の兵力を喪ったダルマスカ騎士団ではあったが、バッシュ将軍率いる残りの部隊でナルビナへ向かうこととなった。
「明日、発ちます」
レックスの静かだが頑として譲らぬ決意を察して、ミゲロは深く溜息を吐く。
若い人が死んでいく、それも国と国との戦いで家族と引き離されて。そんなものばかり見てきた。自分は道具屋だ。ポーションやフェニックスの羽など戦闘に欠かすことの出来ないものも売る。大きな意味では戦で戦死することに加担していることになるだろう。生きていくためだ、これが商売なのだ、と言い訳しても呵責せずにはいられない。
こうして戦災孤児たちの面倒を見るようになったのもそのせいかも知れない。
甘いと言われるだろうが、ミゲロはその気持ちを捨てようとは思わなかった。幸い商売上手で蓄財だけはかなりのものだ。自分が一人で蓄えたものだ、どう使おうと誰にも文句は言われない。伴侶がいるわけでなし、子がいるわけでもない。いや、子ならこの孤児達がいるではないか。偽善と言われようが貧しい孤児のために使おう。そう思ってやってきた。
特に両親を亡くして兄弟二人で必死に生きてきたレックスとは、戦争がおきる前から家族ぐるみで親しくしていた。他人事ではない。
「君にもしものことがあったら、どうするつもりだ。ヴァンは独りになってしまうんだぞ?」
一端はもう相手は17歳だ、いつまでも子供扱いしてはいけない、と自分を納得させて餞別を渡しはしたが。
行くべきではない、と暗に語るミゲロの目を見据えたまたレックスは首を振った。
「あの子はそんな弱い子じゃありません。
そんな軟な男に育てたつもりはない。僕がいなくても立派に生きていけます」
「そういう意味では…」
「それに!それに…、僕が従軍することには意味がある。ミゲロさん、あなたにお話しておきたいことがあります」
ミゲロの言葉を遮ったレックスは、懐から手紙を出した。そのまま相手に差し出す。
「これは、後でヴァンの方から貴方に渡してもらおうと思っていたのですが」
受け取った手紙は手紙というよりは何かの誓約書のようだった。
内容を読んだミゲロが凍りつく。次の瞬間、ミゲロはレックスの頬を張り飛ばしていた。
「何ということを…っ」
「…………」
「君は、君たちは、自分達が何をしたのかわかっているのかね!」
「…………はい」
避けずに平手を受けたレックスは初めてミゲロから視線を逸らし、俯いた。
戦役で大半を喪い、疲弊した騎士団員は老齢の者やレックスのように若年の新人ばかりだった。今回のナルビナ行きには負傷兵や老齢の者を除く団員が赴くことになり、その際、この書類が渡されたのだ。
書類には従軍にあたり、団員に対していくらかの恩奨金が出されると記載されていた。古参の兵達からは我々の忠心を金で鬻ぐのかと憤激する者も少なからずいたが、多くの者は黙ってその書類に署名した。
レックスの同期の…しかも戦災孤児が多く登用される中、皆で決めたのだ。
自分達にもしものことがあった場合、この恩奨金が有意義に使われるように。施設に寄付するには手続きが面倒で、そんな時間は無いので施設にも顔が利き、なおかつ孤児達の面倒を見てくれるミゲロに預けよう、ということになった。
レックスはそれをミゲロに渡したのだ。
「こんなことはしなくていい。金のために従軍するのであれば止めなさい。レックスも他の者達もだ。孤児たちのことなら私が何とかしているだろう。
それとも君たちは私が信用ならないか?こんなものを貰わなければ動かない男だと思っているとするなら、馬鹿にするのもいい加減にしなさい!」
目が眩みそうな怒りと悲しみをどうにか飲み込もうと肩で大きく息を吐いたミゲロだったが、遣る瀬無くカウンターを叩いた拳に力が入ってしまうのは止められなかった。
ドン、と重く振り下ろされた拳を卓上で震わせ弱く首を横に振る。
面倒見ていた孤児の中で、15歳を越して騎士団に入った子を何人か知っている。彼らはこんなにも不安だったのか、それを察することのできなかった自分が歯痒くて堪らなかった。
「僕は…、僕らはお金の為に行くんじゃ無い。ダルマスカのため、ラバナスタに生きる国民のため、僕達のような孤児が暮らす場所を守るために行くんだ。
僕はダルマスカを愛しています。ラバナスタが好きです。
ヴァンは国なんて貧乏人には厳しいだけだ、って言うけどそれでも国民で良かったと思っています。
何か、何かしなけげば…僕ができることは何なのか。しなければならないことは何か、ずっと自問しつづけてきました。…従軍することが、その答えです。
今、陛下を喪うわけにはいかないんです。もしそうなったらダルマスカは間違いなく自治権を奪われて帝国に蹂躙されます。ランディスのように国そのものを解体させられることは無いかもしれませんが、それでもダルマスカの生命線でもある貿易利権を独占され王都地下の広大な水利施設ごと灌漑施設を掌握されてしまえば、供給を受けていたダルマスカ領周辺の小公国はみな干上がって、事実上ガルテア半島全てがアルケイディア帝国のものになってしまいます。誰も何処にも行けない、縋る場所も無い、最も貧しく弱い者から犠牲になるでしょう。
ラバナスタもその周りの国々も今以上に生き難くなってしまう。
命に代えても、そうはさせない…っ!」
「レックス…」
「受け取ってください。皆、僕と同じ気持ちです。あなたにだから預けるんです。
きっと、何があっても孤児たちを見捨てたりしない人だと信じているから」
「……………」
目の前で深く頭を下げるレックス。
もう反対することも、手紙をつき返すこともできようはずがなかった。
意識して抑えていたつもりだったが、二人ともいつしかかなり大声で言い争っていたようで、ふと振り返ると奥から少女が不安げな顔でこちらを見ていた。
その少女に何でもないのだ、と微笑を返したレックスに、ミゲロは一つ溜息を吐いて手紙を懐に入れた。
受け取るしかない。だが、これは絶対に彼らに返すつもりだ。
「預かっておく。いいか、預かるだけだ。帰って来たら絶対に取りにおいで。いいね?」
「ミゲロさん、でも…」
「他の皆にもちゃんと伝えておくように。さぁ、この話は終わりだ。
はやく屯所に顔を出して家に帰りなさい。明日はヴァンと墓参りだろう?」
強引に話を切り上げられ、レックスは苦笑した。
堅い人だ。でも受け取ってもらえて良かった。
無事に帰って来れても取りに来る気はさらさら無かったが、こうも強く言われては仕方ない。
レックスは少女にお別れを言って裏口から店を出ようとした。
その背中にミゲロの静かな声がかかる。
「ヴァンはこの手紙の内容は知らんのだね」
「………言えません…でした」
「言わないほうが良い。あの子は昼間ここに来てこう言ったよ。
『俺の兄さんは優秀だから将軍のお眼鏡に適って一緒にナルビナに行くんだ!スゴイだろ!?憧れのバッシュ将軍とだぜ!?』ってな…。自慢するみたいに言ってたよ」
ぎゅうっと胸を掴まれたように感じた。
ああ、本当に何て…愛おしい。そのまま、曇りの無い純粋な心のまま、あの子が生きていけるために。そのためだったらいくらでも僕は戦う。
「帰っておいで、必ず。…ヴァンを独りにするな」
レックスは強く頷いて店を後にした。




翌日は快晴だった。
いつもの制服ではなく騎士団の鎧を身につけるレックスを、ヴァンは大人しく見ていた。
いつになく静かなその様子にレックスは訝っていたが、口には出さずに装備をすませる。
パンネロの両親に厄介になるのは心苦しい、と弟と二人で移り住んだ質素な家を見回す。短い間だったがそれなりに思い出がつまっていた。
死にに行くわけではない、と思いつつもレックスはどこかで別れを惜しんでいた。
「行くか」
「ん」
短い応答の後、二人は連れ立って家を出る。
東ダルマスカ砂漠を進んだ小高い丘にある両親の墓に着くと、二人で種から育てたガルバナの花を墓前に置く。
野生の花よりわずかに色は落ちるが、それでも見事に鮮やかな朱。
風に乗ってふわふわと漂う香に黙って目を細めていると、後にいたヴァンがいきなり「ああ、もう!何でだよ!?」と叫んだ。朝からずっと無口だった弟の奇行に驚くレックス。
「ヴァン…?いったい、どう……」
言いかけたレックスは自分とよく似た、でも全く違う青灰色の瞳に睨まれて言葉を飲み込む。激しい怒りの表情を向けているのに、感情の抑揚によって青みが鮮烈になるはずの瞳は灰色に沈んでいた。悲しげにすら見えた。
「何でみんな考えることは戦争ばっかりなんだ!?
騎士団や市警団の中には俺たちを貧乏人だって馬鹿にする奴がいる。外国人は敗戦国の人間だって俺たちを哀れむ。帝国人はバンガやシークやモーグリを亜人種だって差別して、そいつらと生活できるダルマスカ人は野蛮人だって言ってるのを聞いた。みんな好き勝手言って好き勝手に生きてる。いいさ、それでいいよ。帝国もダルマスカも関係ないよ。みんなそうやって好き勝手に考えて生きてるし、気に入らない奴とは喧嘩して議論して仲直りして、貧しかったり金持ちになったりしてさ。どこに生まれてもどこに育っても変わらないだろ、みんな。どこでもどんな奴でも同じだ。なのに何で国ってひと括りになると戦争なんだよ。
俺はそんなの嫌だ。自由になりたい!!」
支離滅裂、だった。何を伝えたいのかわからない。いや、伝えるつもりなどないのだ。この言葉は何かを訴えるためでも、伝えるためでもない。これはヴァンの裸の心なのだ。
「兄さん、行かないでくれよ」
頼りない声で自分に向けられた言葉に、ぐっと胸が締め付けられた。
「俺、兄さんが好きで憧れて将軍についてナルビナに行くんなら止めない。
でも違うなら嫌だ。帰って来ないつもりなら嫌だ。…俺たちのために行くのは嫌だ!」
そう叫んだ瞬間、レックスはヴァンを強く抱きしめた。
もう耐えることが出来なかった。本当は怖い。とても怖い。
戦うことは恐ろしくない、傷つくことも怖くない、死さえも愛する祖国と守りたい場所を守るためなら…この弟のためなら厭わない。そのように生き、殉じる自分に満足するだろう。
でも怖いことが一つある。
自分にもしものことがあった時、この子を孤独にしてしまった時。寂しい時も泣きたい時も、もう慰めることも励ますこともできない。あの小さな家でヴァンが独りになってしまう。
それだけが恐ろしかった。
ヴァンにはいつも笑っていて欲しかった。

 い き た く な い 。

声には出さず、唇だけで刻んだ言葉。
レックスはきつく抱きしめていた腕を弛めて、宥めるように弟の髪を何度も撫でた。
「帰ってくるよ。帰ってくる。ヴァンだって飛空挺が手に入ったのに飛んじゃダメ!って言われたくないだろ?」
身体を離して軽い調子で言うと、ヴァンは顔を顰めた。
その鼻をきゅっ摘んで離す。
「じゃあ僕がバッシュ将軍とナルビナに行くのも反対じゃないよな?」
「うん…」
「ほら、ヴァンが邪魔するから母さんたちに挨拶できなかっただろ」
そう言って墓前に祈りを奉げる。
母さん、父さん。ヴァンに嘘を吐きました。これから僕は死地へ向かいます。
生きて帰ってこれたら真っ先に挨拶に行くけど、そうでなかったら向こうで会いましょう。
短い祈りの後、ヴァンを振り返るとさっきのことを引き摺っているのかまだふくれた顔をしている。
「ヴァン、お前も挨拶…」
続きは言えなかった。いきなり襟を捉えられ、少し背伸びしたヴァンにキスされたから。
一瞬の温もりの後、さっと離されレックスは呆然と俯いた弟を見る。
「母さんの代わり」
ああ、そうか。家族のキス。
……ああビックリした…、と胸を撫で下ろす。
苦笑して「でも良かったのか?ファーストキスは女の子とじゃなくて」と言うとヴァンは澄まし顔で「兄弟はカウントしないからいいんだ」と言った。
レックスは別れ間際にまた少し悄気た弟にことさら軽い別れを告げた。
きっとまたここに帰ってくる。
他の騎士達と共に出発したレックスはラバナスタを振り返り、唇に手をあててもう一度祈りの言葉を口にした。




B.I 706年


晴れ渡る青空に真っ白な花びらが舞う。
ヴァンは一人で両親の墓前に来ていた。ここに来るのは久しぶりだ。
「ごめん、遅くなって」
兄さんと二人で暮らしていた家は帝国軍のラバナスナ占領で取り壊されちゃって、今はダウンタウンの住人。と、言ってもねぐらが変わっただけで、暮らし向きは相変わらずだけどね。砂漠や草原でおたからハントしたり、ミゲロさんの手伝いをしたり…あと、たまに帝国軍の兵士の財布をくすねたりな!あれ痛快!!
物言わぬ墓前に心の中で語りかけていたヴァンは、古い墓石の隣の真新しい墓の前に屈んだ。
「兄さん…」
1年前に他界したレックスの墓だった。
2年前のバッシュ将軍の反逆と国王暗殺。その目撃者で唯一の生き残りだったレックス。ダルマスカは最初から帝国側の発表を鵜呑みにはしなかった。が、整い過ぎた状況証拠と何より自白剤と魔法によって引き出されたレックスの証言を示され、信じたくない事実を信じざる終えなくなった。
生き残ったレックスは計画実行寸前に逃亡を図った脱走兵の扱いをされ、彼も直接では無いにしろバッシュの反逆に加担していたと見られた。重傷により意識の無いレックスは一旦は病院に収容されたが、意識が戻り次第、尋問されることになった。
兄さんが反逆者の仲間なんかのはずがない!、とヴァンは市警団に食って掛かったが、面会はいつになっても許されず、占領軍に自治を奪われバッシュの処刑もラバナスタとは別の所で行われ、市民のやり場の無い無念と苛立ちはレックスに向かった。槍玉に上げられるのは時間の問題かと思われた。
だが、それは現実のものとはならなかった。
大量失血と重傷を負わされたにも関わらず辛うじて命を取り留めたレックスだったが、帝国側で行われた拷問紛いの厳しい尋問と、傷の治癒を待たずに行われたダルマスカ側による数週間に及ぶ長い尋問と軟禁生活の最中に精神を病んでいた。やがて心を失い廃人同然となって、身柄がヴァンの元に戻された時にはすでに命幾許も無い状態だったのだ。
目は見えている、耳も聞こえている、意識もしっかりしている。
だが何も喋らない。…喋れない。
ただ生きているだけ。
世間の関心は薄れ、脱走を企てた可能性があったとは言え数少なく生き残った敗残兵の中でも殊更惨く扱われた少年への同情を示す者も徐々にだったが多くなり、レックスは施療院の一角に収容さた。以後は院外に出ることもなく、一年前にひっそりと息を引き取った。立ち会ったのはヴァンとミゲロだけだった。
葬儀は寂しいものだった。レックスの友人の多くは共に戦地に向かい、もうこの世にはいなかった。
ヴァンは泣かなかった。
兄の死に立ち会った時も、墓に埋葬する時も、それから一人になってもずっと。涙が出なかった。
悲しくないわけじゃない、辛くないわけじゃない。
でも幾ら待っても涙は出なかった。
こんなに淡々と兄の死を見つめている自分は、どこかおかしいのかもしれない。
「ガルバナの花、さ…。結局あれから一輪も咲かないんだ。
どうしてかな、兄さんと育てた時と同じようにしてるのにさ。やっぱり愛情の差かなー…」
淡々と話しかける。
自分はどこかおかしいのだ。欠損してる。
失くした部分も涙も兄が持っていってしまったのかもしれない。
それならそれでいい。
泣けたら楽になれるかもしれないが、それで兄のことを昇華してしまうんなら泣けなくて良い。
まだ一人になるのは寂しいから。
たとえそれが悪夢の中でだけだとしても、兄に一緒にいて欲しい。
「終ってないんだ、俺の『2年前』は…」
そしてこの2年間は。
いつか答えを得る日が来て、そして泣ける日が来たら。
その時、兄にさよならを言おう。
「だから…、兄さんそれまで俺と一緒にいてくれるか」
甘ったれてゴメン。
ヴァンは立ち上がると、うーん、と伸びをした。
さあ、これからひと仕事待っている。
今日はミゲロさんの倉庫でネズミ退治だ。カイツにカギあけを頼んである。
もう約束の時間を過ぎてるから、きっとハラハラしながらふくれっ面でヴァンが来るのを待っているだろう。
踵を返しかけたヴァンは髪を掻き乱して吹き抜けた風を追って振り返り、唇に手をあてて祈りの言葉を口にした。
そして大急ぎでラバナスタに駆けて行ったのだった。




物語が始まる。














end
2011.05.01(再掲)


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