いつが最初だったかは覚えていない。
だが最後は覚えている。




「屍の上を踏みつけて歩くことがジャッジの仕事か。…武門出の筋金入りの騎士連中には嫌われるはずだな」
歪んだ唇が皮肉を言い馴れなる日も近い。少年は覚えたばかりの煙草を握り消して溜息を吐いた。
眼下に柔らかな丘陵をいくつも描く砂浜は積もり積もった細かな生物の死骸でできている。いつまでも座り込んで水面を眺める男の隣に立つと、強張った肩から徐々に力が抜けた。
戦塵に塗れ汗で額に張り付いた前髪に滲んだ幼さは、鋼鉄の篭手に掻き上げられて霧散する。
茫洋としているようで遙か遠くを目指す眼差しを追って漣の向こう、フォーン海岸から先へ拡がる地平線は境が曖昧だった。水面に接近する太陽に焦されて、海と空とが同じく焼かれている。
ざりざりと鎧を軋ませる砂の粒は具足越しにも柔らかく、屈み込んで撫でた指の隙間から、さりさり、と零れ落ちた。
「国粋を気取って白い手袋を汚さないのがアルケイディアの騎士の矜持なのだろうよ」
この時初めて言葉を交わしたのだと気づくのに時間がかかるほど、男はずいぶん以前から少年を見きていたらしい己に憮然とした。面映さと訳もなく感じる後ろめたさは男の口を重くした。ただ単に返す言葉が上手く見つからなかったこともあったが。それでも。お互い逸れ者であったせいか、気負いは無かった。
ロザリアの経済学者はアルケイディアを未熟な社会であると糾弾し、アルケイディアの政治家はロザリアを野蛮な因習に固執する古臭い政体であると嘲笑する。ロザリアが切り取って見せたアルケイディアの断面も、アルケイディアが論ったロザリアの側面も、全てが正しい。どちらに傾くかは自分好みの正義観で決まる。ただそれだけのこと。
士官学校で唾を飛ばして熱弁を振るう教授を前にするたびに、いっそ己の依拠とする国など無ければいいのに、と思ったものだが、それはこの少年にしても同じ心であったらしい。
人種が、国籍が、家柄が、過去が、今目の前に置かれた自分の椅子が、望んだわけではないのに先まで敷かれた道が、幾重にも柵を作る。それらもろもろのしがらみに囲われて。それが思うことを考えることを妨害する。
不自由だ、この上も無く。
縛られているのにそれに気づかない、気づきたくない。我々は縛る側だ、管理者なのだ…、と骨の髄から叩き込まれて、周りが見えなくなっていく同輩達は明日の我が身である。いつどう転んでもおかしくない時期に、私は恐れ感化され看過して家族を犠牲にしてジャッジの地位に納まってしまった。
「悩むといい」
勝手に口をついて出ていた。少年の憂いがいじましいものに見えた。
男は、しまった…これでは彼の矜持を傷つけるか、とぼんやり危惧したが、少年は目をまん丸にして薄く口を開けていた。何かを押し殺すように歯を食い縛っていない彼はなかなか可愛い面差しをしている。生意気に鋭い眉と少し垂れた優しい眦の対比は美しく、まだ少し頼りない肩幅も、偉丈夫とまではいかないまでもおそらく日を追うごとに厚みを増していくだろう。
すらりと伸びた立ち姿にはどこと無く品格がある。…ああ、すっかり失念していた。彼は政民階級では古参にあたる名家の秘蔵っ子であったのだったな。
「今が思案のしどころだ。時を失うと思うな、重ねていると思え。けっして急ぐな。だが契機を見逃してもいかん。大事なことは気づくことだ」
演習中に上官から殴られ、バイザーに唾を吐きかけられていた少年の握り締めたまま震えていた拳には、殴りかからないだけの思慮と握り締めずにはおられない意地が見て取れたのを思い出す。何かに抗う時の彼の、苦悶の中にあっても折れない拉がれない瞳は好ましい。
侮られたと罵声が飛んでくるならそれも良し。
詫びはしないが明日以降の世間の目の冷たさは覚悟しよう、とひっそり胸に落とす。
少年は黙って男を見ていた。
正直に言えば、初対面では無いものの挨拶すらろくに交わしたことの無いこの陰気な同輩をどこか軽んじていた。
新民階級からの成り上がりで、出自のあまり芳しくない母親を弟諸共に家門から追放してまで政民になった男だと。嘲弄を通り越して嫌悪の目で他の士官達から見られていた。史上最年少で士官した自分とは別の意味で好奇の視線を浴び続けていた男は、腐臭のする噂話とはうらはらに世捨て人のような気風だった。
軍鳥に踏み荒らされたままの形で深く抉られ残っていた砂浜の足跡が薄れて消える頃。漸く少年は言葉を発した。
「わからない」
日が水面に沈む寸前に、少年は呻いた。文字通り、奥歯の隙間から押し出すような呻き声だった。
わからない。父の考えも自分の気持ちも。
一番似ていた、最も近いところに居た、だから自分だけは父がわかると。そう遠くない昔そうしていたように、今もこれからも二人で夜も昼も無く倉庫に篭って。肩が凝った腰が痛いと言っては、俺が夢中で読んでいた専門書を取り上げて按摩しろと偉そうに言って、それで俺が怒ってつっかかるのを面白がって笑っていた。アカデミーの機械科を専攻すると言ったら「お前みたいなヒヨコにべたべた触られる船が不憫でならん。いつ自分の腹に穴を空けられるかとひやひやしておるだろうよ」と馬鹿にしながら、試験に合格するたびに向こう周囲に触れ回るほど喜んでいた。
道楽三昧のアンタは一族中の嫌われ者だったけど、俺はアンタが好きだった。アンタのようなエトーリアになりたかったし、なれると思った。
何の前触れも無く除籍されたアカデミー、わけも解からず士官学校へ入れられて、飛空挺の並ぶ倉庫には鍵がかけられ鎖が巻かれ、俺はたった一枚残ったシュトラールの設計図を握り締めて途方に暮れるしかなかった。天地がひっくりかえってしまった。つい昨日まで抱き締めていたはずの世界が、終わってしまった。
どうして。
なんで、こんなことに。
わからなかった、何もかもわからなかった。
わからないままここまで来てしまった。
「君は鎧を纏って初めて剣を翳した日を覚えているか」
男は立ち上がって、風に煽られて積もった砂塵を払う。
下げたままだったバイザーを上げて、そのまま兜を脱ぐ。現れた顔はまだ20そこそこであるはずなのに妙に老成して、顎を引いた頬骨の高い横顔が夕日を受けて赧らむ。
「…ああ」
剣を抜いた男に倣い、佩刀の鯉口を切った。
刃鏡に映すのは覚悟。驕ることなく、しかし豪邁であれ。顧みるな、だが思慮を忘れてはならない。勲功は血で贖え、命を懸け最後のひとりになっても国を守る、貴族の使命を果たせ。
諸刃の向かう刃を鍛え、己に返る刃を恐れるな。
…アンタは俺を鎧に押し込め剣に誓いを立てさせて、いったい何を望んでいるんだ。
言われるままに剣を振るい、僅かな呵責と共に切り伏せられていくもの。統制の威令の下、踏みつけられるもの。
領土拡張により大なり小なり叛乱分子を抱える帝国は、跋渉して道を均すが如くそこに暮らす人々の意思も命も踏みつけて平らかにする。演習とは名ばかりの討伐作戦、初めて人を斬り殺した。
返り血を浴び、命潰える間際の壮絶な怨嗟を目の当たりにし、爪先までシンと凍える震えと胸郭が破れそうな興奮を知った。奪ったものの重みと慙愧に剣は鞘に収める間もなく地にのめり込んだ。
胸を塞いだ思いを知るわけでもないのに、男は切先をカンと触れ合わせて笑った。
「子供だな」
「何…」
「踏みつけてきた、と君は言うが。私から見ればまだ君は地に足をつけてすらいない」
遊ぶように当てた切先が強く弾き返される。そのまま突っ込んできたのを横に受け流しながら思う。彼はこれからなのだと。
誰もがそれぞれの正義の旗の下に、己の目を通して見る世界を愛している。
皆が世界を守るために戦っているのだ。己の世界を守るために。
私も世界を愛している。だから戦う。己の信じるものを守るために。鎧が錆びても剣が毀れようとも、この身を賭して贖うものは勲功ではなく己の浅慮で踏み躙ってしまった弟への罪だが。そうして己に許しを与えることによって、やはり私は私の世界を守っているのだ。
ただ間違えてはならない事は、真実真心から求めることと、己ではない他人の手で作られた考えに乗っかったまま足踏みすることすらなく安易に願望することを同じことだと錯覚しないこと。
感化されて道を迷う者は己の中の世界が荒らされているのを看過してしまいがちだ。後ろめたさを誤魔化すためにすげ替えられた問題をひたすら糾弾し非難する、もしくは煽動されるままについて行く。いつのまにか曲げられた己の心に、歪んでしまった世界に気づかずに。
まだ15になったばかりの少年は、いまだ己の世界を知らない。いや、一度失くして同じものを探そうと足掻いている。まだ取り戻せる、取り戻したい、と立ち竦んで父親の背中を追っている。
踏みしめるごとに重くなっていく歩みと、ずるずると引き摺ってここまで来てしまった轍の跡を顧みることを厭いながらも。
…それを己に架しているのもまた、足元にさす父の影であることの矛盾に喘ぎながら。
それらを目の前の男に見透かされた気がして、少年の頭にカッと血が上る。
初めから本気で斬り合うつもりなど無い軟な男の剣は、カンッ!と弾き返され歪な放物線を描いて波打ち際にベシャリと落ちた。これを見て「ああ汚れた。…塩水塗れとはまた厄介な、錆びなければいいが」とのんびりと呟く男。剣を手にしたまま息を荒げている少年にあっさりと背中を見せて自分の剣を拾いに行く。
「好きなだけ悩んで気が済んだら探すといい」
「…っはぁ、はぁ、っ…何、を…?」
「父親が望むものではなく己が望むものを」
今は足元に散らばる骸だらけの砂浜しか見えなくとも、少年は自ずと世界を知るだろう。
全てが紅かった、黄金色でもあった、空の端は深い藍色を帯びていたが、それでも視界いっぱいを占拠するのは圧倒的な存在感で空を海を焦す太陽だった。
今にも死んでしまいそうだ。奪われてしまいそうだ。
こんな暖かな美しい光に飲み込まれて掻き消えてしまうのならどんなにか…、つかの間の幻想を抱いてしまうほどに。人にも神にも作り出せない、空と大地の凄絶な終焉。それを追って柔らかくひんやりと満ちてくる夜の帳。漣と風の音しか聞こえないのに、何か壮大な交響詩を聴いているような高揚感が湧き上がる。
真っ赤に染まった少年の頬は沈む太陽を抱いて茜色に熔ける水平線と同じように、輪郭が曖昧になる。卵の殻のようななめらかな曲線がぼやけ、斜陽に火照る光の線が顎を伝い落ちるさまは泣いているようだ。
「燃える、世界が…」
全てが紅く、赧く沈んでいく。
黄金色の波間、放埓に何もかもを飲み込む光暈、没する太陽は命そのものだった。
無窮を刻む漣を波濤が飲み込み掻き乱す、渦を巻きのたうって、逆らい、抗い、そして流されていく。飛沫く泡を生んで消える波もあれば、そのまま揉まれて深みへ吸い込まれてしまう波もある。
つらつらと流れて消える時を、二人の騎士は惜しむでもなく共に失っていた。


いつが最初だったかは覚えていない。
だが最後は覚えている。
焼け落ちた世界の果てに、彼は何を見たのか。私が見た黄昏に熔ける彼の横顔を最後に、彼はジャッジ隊から姿を消した。その一年後、旧市街からブナンザ家の三男が帝都を出奔したという醜聞がまことしやかに囁かれるようになる。
彼が見つけた世界がどんなものなのか、私はふとたまらなく知りたくなる時がある。それは恐らく、私が彼と弟を重ねて見ていたからかもしれないし、たまたま彼の岐路に居合わせてしまった…その鮮烈な美しさが今もなお褪せることなく胸に去来するからかもしれない。
今年もまた更新の時期が来て、分厚くなったり薄くなったりする手配書の束の中に変わらず一人の空賊の名前を見ると安堵する。
願わくは彼の抱く世界が終焉を迎えるその時まで美しくあってほしい。













end
2011.05.01(再掲)


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