亜熱帯気候に属するダルマスカの王都ラバナスタには雨季が近付かない限り滅多に雨は降らない。
東北に位置するフォーン海岸はまた異なる気候のようで、薔薇色を帯びた黄昏の空の端には雨雲らしい雲が差し迫っていた。明日の明け方には一雨降りそうな様相を呈している。
先刻までパンネロと二人で遊んでいた名残りで具足と靴は脱ぎ捨てていた。
砂漠と同じくさらさらとして、でも黄褐色ではなく白い砂。日中の火傷するような熱さが引いて、人肌ほどの温みを残す砂に素足を遊ばせながら。
少年は一人、砂浜を歩いていた。
幼馴染は最近すこぶる仲の良いフランと一緒にバンガローで夕食を作っている。少しばかり財政に余裕の出たパーティーは久々に宿を取って休むことにしたのだ。天幕では何かと簡易な食事しか作れなくて不満げだったパンネロも、久しぶりにちゃんとした調理場を借りて腕を揮えるので嬉しそうだった。
ヴァンの大好きな肉団子のスープを作ってくれると言っていた。
美味しく作るからね、とニコニコしながら宣言したパンネロの顔を思い出してヘラっと頬が弛む。
気持ちの良い笑顔、美味しい夕食、柔らかいベッド……幸せだ。
ほぼ毎日歩き通しの強行軍でここまで来た。…さすがに疲れが溜まっていた。
それでも目の前の小さな幸福にウキウキできる。
そういう自分に満足した。
「遠くまで、来たよなぁ…」
草原を抜けてソーヘンの洞窟を通ったら、帝都だ。
俺たちから、国を奪った、自由を奪った、誇りを踏み躙った。
俺から……兄さんを奪った、ジャッジのいる帝国に辿り着く。
バッシュを貶めて、レックスの心を砕き死に至らしめたジャッジマスターも。その帝都にいるのだ。
そう思うと普段は考えないように、無意識に抑制している心の内の生傷が血を噴き出す。そこには確かに負の感情があって、今も苛まれて悪夢に魘され夜を明かす日もたびたびあるけれど。
帝都に近付けばもっと混乱したり凹んだりするかなぁ、と思っていたのに。
そうでもない。何か、思ったより平気だ。
「図太い…よなぁ、俺」
ガリフの里で一端、気持ちにケリをつけたからか。
ああ…そのガリフと里でのあの夜ももうずっと昔のことのように思えてしまう。
そんな自分だから、バルフレアが居てバッシュが居て…パンネロもアーシェもフランも居て…それが当たり前みたいになっている。
大人なんて…ミゲロさんやお店の人たち以外は信用できない、なんて突っ張ってツンケンしてたのが嘘みたいに。
どこまで行けるんだろうか。
俺たち、まだ一緒の轍を踏んでいるんだろうか。
海から吹く風は独特の息の詰まるような磯の潮気を含み、それだけが黄金の夕暮れとその琥珀色を映した海の夢のような美しい光景を現実のものとして生々しくさせていた。
ふと、岩場に細い人影がちょこんと座っているのに気付く。
アーシェだ。
いつも一緒のバッシュの姿は無い。
さっきまで共に難しい顔をつき合わせていたバルフレアもいない。
ここは賞金稼ぎやハンターや、いろいろ荒くれ者も多いから一人で居るのは 王女にちょっかい出した馬鹿の身の安全が ちょっと危ないかもしれない。
「よっ!」
「…っ!?…ああ。あなただったの」
また、あの顔してる。
ジャハラで見たあの顔だ。
芒洋として酷く心細そうな、折れそうな感じのぼんやりした目でひたすら暮れてゆく海を見ているアーシェ。
強く気高く逞しい王女様はこんな時いつも人に頼らない。
「何してんの?」
極めて軽い調子で聞いてみるヴァン。
…おそらくバルフレアと何かあったのだろうけど。気づいているのかいないのか、左手の中指を擦るアーシェの指先の動きが意味する寂しさは、あまり細かいことに気が回らないヴァンでさえも解かる。
「いえ…、別に。海を見ていただけよ」
「ふーん」
「あなたは……遊んで来たのね。
はぁ…、今日はここで一泊することだし、羽目を外すなとは言わないわ」
でもちゃんと濡れた髪くらい拭きなさい、と懐から出したハンカチをヴァンに差し出す。
少年はそれが上等な絹だと知って慌ててブンブンと首を横に振った。
その拍子に湿って光沢を増したプラチナゴールドが煌く。美しい光景だ。私の髪も平凡なブラウンでは無く、こんな色だったら少しは楽しめただろうに…。とちょっと嫉妬を感じてしまう。
使ってくれて良かったのに「大丈夫、夕食の前に風呂入ってくるから」と断られてしぶしぶ仕舞った。
話の接ぎ穂をつけるべきか、と悩んでいる内にさっさと王女の隣に座り込む少年。
何となく二人して黙っていると。
「なぁ」
「え…?な、ちょっ…やっ!?」
唐突に呼ばれたかと思ったら強く腕を引き寄せられて、柔らかく乾いた砂の上に尻餅をついた。同じ目線になったヴァンが悪戯成功、とばかりにニヤニヤしていて。
「いきなり何を…!」
「気持ちいいだろ」
「…?」
「砂だよ。…人肌っていうかさ、今が多分、一番気持ちいいよ」
子供のように笑って膝の間で砂の山を作っている。
その無邪気な様子に頭を叩こうと思っていた手を下ろした。促されて、アーシェもそっと温かい砂を撫でてみる。
手は汚れても別に構わないが、指輪が砂に塗れるのは…と思い外した。
素手でヴァンの動作を真似るように触れてみる。本当だ。本当に人肌のぬくもり…。きめ細かい砂の手触りも、微温湯のような温度も酷く優しくて。ささくれ立った心を宥めてくれる。しばらく二人して幼子のように砂に戯れていたが、いつしか真剣に砂山の建設をしているのが自分だけなのに気付いてアーシェは視線を上げた。
意外なほどに近くで見詰めてくる青灰色の瞳と出会い、澄み切って率直な眼差しにらしくもなく鼓動が早鐘を打った。
「指輪、失くさないようにな」
「あ…う、ん。…そうね」
「俺はさ、手に何かつけると篭手に引っかかるから…。だからズボンの内ポケットに入れてるぜ?」
ぽんぽん、と叩いたズボンの右からシンプルな銀細工の指輪を出してみせる。
おそらく市中に出回っている…量産型の廉価な品物だろう。所々に瑕が入っていて、かなり古いもののようだ。細身の指輪とヴァンとがあまりにも合致しなくて、つい探るような視線を向けてしまったが別段、彼は機嫌を損ねることなく笑った。
「兄さんの」
形見、なんだ…。
ぎゅっと胸を掴まれる思いがする。
その形見の指輪ではなく、それを肌身離さず持っている事にではなく、彼の…ヴァンの屈託の無い柔らかい笑顔に。憐憫と同情と…そして、微かな苛立ち。同時に不用意に触れた彼の過去に彼が傷ついていないことを知り、加害者にならずに済んだことに対する安堵感を感じて。
アーシェは視線を合わせていられなくなって目を伏せる。…自分が、酷く浅ましい者に思えた。私が傷を膿んで喘いでいるからと言って、それを彼にまで求めるなんて。
私の苦しみも悲しみも私だけのもの。
共有するものでも、ましてや背を借りて背負わせるものでもない。
「ごめんなさい…」
搾り出すようなか細い声に、ヴァンは失敗したー…と頭を抱えた。
さ、さり気無く慰めよう作戦は途中まで上手くいってたのに…!馬鹿、俺の馬鹿っ!おたんこなす!!
焦ってさっさと指輪をズボンに突っ込もうとした…が、思い直してアーシェの手を取り引き寄せる。そっと掌に指輪を載せた。
白くて細い手(実は物凄く豪腕だけど)の中のソレは、酸化してちょっと黒ずみ貧相に見えて…内心でちゃんと手入れをしとけば良かった…と思う。
「…もともと母さんのなんだ」
「お母様の…?」
「うちはヘンな家族でさ。ミゲロさんとこの店員で仕入れの仕事してた父さんが仕入先に行く途中に盗賊に襲われて…、それを助けたのが賞金稼ぎしてた母さんだったんだ」
柔和で気弱な父と豪快で女傑な母を思い出して苦笑する。
レックスは父親似の清廉実直な性格だったが、自分のこの無鉄砲や考え無しは大雑把な母に似てるとも言えるかもしれない。遺伝って恐ろしい。そう言えばこのプラチナゴールドも母さん譲りだな…、と考えながら言葉を紡ぐ。
「裕福じゃなかった上に男の子二人も授かっちゃったもんだからさ。
家計は常に火の車ってヤツで…それでもどうにかこうにか捻り出した金で父さんが母さんに贈ったんだって」
「そう…」
「……流行り病なんかで死にそうにない二人だったんだけどな。
施療院に隔離されて身ぐるみ全部処分されちまって…伝染病の恐れがあったんだから仕方ないけど…結局コレしか残らなくて。
兄さん、俺が寂しいだろうって言って最初はその指輪、俺にくれたんだけど」
ぶかぶかでさー…おまけに放っとくとやたらと失くすし、と言って過去を振り返るヴァン。
夕日に染まって赤らんで見える顔には懐古以外の感情は映していなかった。
なぜ。どうして。
そんな風にあなたは笑っていられるの。
先ほどから胸に燻っていた苛立ちが一気に膨らんでいく。
このままでは彼にまた、私は酷い言葉を投げつけてしまう。不平や文句を垂れながら…それでもいつでも私の焦燥を八つ当たりを受けてくれる。自己嫌悪で立ち竦む前に、笑って流してくれる彼に。
「…兄さんがつけてた。それで夜中、俺が泣くと指輪をした方の手で手を繋いでくれるんだ。うわ、何か照れるな…恥ずかしい。よくやるよ、ガキって言ったって男同士なのにさー…」
ヴァンはむず痒そうな顔で首の後ろを掻く。
本当にレックスは出来た兄だった。自分は泣かずに弟の涙を拭って、時に抱き締め、時に手を繋ぎ、両親に代わって優しく厳しくヴァンを導いてくれたものだ。
こんな事を人に話すのはバッシュ以外は彼女が初めてだ。
憎悪というには弱い、けれども確かに存在する…悲しさと寂しさと苛立ちと後悔がごっちゃになって…もう”思い”と呼ぶにはぐずぐずに形の崩れてしまった澱み。叫びだしたくなる日もあるけど、そうでなくただただ懐かしくて堪らない日もある。その両極端な思いはまるで振り子のようだった。
今日は幸いにして後者だ。優しい気持ちでいられる。
「…お兄様が…亡くなられてからは、あなたが受け継いだのね」
黙って聞いていたアーシェがポツリと漏らした。
食い入るように掌におとされた指輪を見詰めている。微かに声が震えているのは何でだろうか。
訝って伏せられた顔を覗き込むと、アーシェの目には涙の膜が張っていた。
「ア、アーシェ…」
咄嗟にゴメンとわけの解からない謝罪をしようとしたヴァンを、ネイビーブルーの強い瞳が射抜いた。
「なぜ…っ!なぜあなたは、そんな風に笑って…っ!どうしてなの…?忘れたのではないのでしょう?今も、今も苦しいはずでしょう!?憎いはずでしょう!?それとも、あなたにとって蹂躙され奪い去られた屈辱は…悲しみは、忘れられるものだったの。その程度のものだったというの…っ!!」
血を吐くような詰る言葉を言うアーシェは、ヴァンを罵りながら自己嫌悪に顔を歪めていった。
止まらない。言葉が溢れて止まらなかった。
この愚直なほどに真っ直ぐで柔婉な少年を傷付けてしまいたかった。
駄々を捏ねる子供と同じ。一人だけ、先に進んで何もかも承知したような顔をして、受け入れて乗り越えて、救われているなんて許せない。
レイスウォール王墓で彼だけが私と記憶を共有しえた。…ミリアム遺跡では、もう彼は何も見えなかったと言ったけれど。それでも、愛する半身を喪った苦しみはきっと同じだと。
私は、今も、こんなに……苦しいのに…。
最後には支離滅裂な八つ当たりをして、怒鳴り疲れて黙り込んだ王女の手は震えていて。掌の指輪もきらりきらりと揺れていた。
半ば呆気に取られて見ていたヴァンだったが、おずおずとその手に触れる。
指輪を包み込むみたいに握らせた。
「……アーシェ、その指輪…さ。持っててくれない…?」
「なぜ…。もう自分は必要ないから?もう忘れて…いえ乗り越えたから、とでも言うの。それとも私の至らなさをしらしめるため…?」
私が、私たち王家が守れなかったものを…それを思って苦しめと?
嘲笑は痛ましくて…、強くて優しい彼女には似合わなかった。詰られるよりもその一言一言で傷つき血を流しているアーシェの心の方がヴァンにはずっとずっと辛くて堪らない。
最初の出逢いはお互いに心象最悪で…、ことあるごとに衝突していたけれど。いつの間にかヴァンは意地っ張りで一生懸命で真面目で…キツイけど優しい彼女を好きになった。
パンネロを大事な家族だと思うのと同じように、大事な仲間だった。
こんな風に酷く落ち込んでいるのを放って置けなくて、だから、八つ当たりされるのを覚悟で側に居る。
「違うよ。…俺だって、今も眠れない日がある。
今のアーシェみたいに頭の中がぐしゃぐしゃになっちゃって、叫びだしたいって言うか…無性に殴りつけてやりたいって言うか…寂しくて虚しくて堪らなくて。そんな日もある。
…そういう時、俺は我慢しないんだ。
兄さんの指輪に触って…あからさまに指輪を引っ張り出すとパンネロとかバッシュとかが気にするから…ズボンの上からぽんぽんって。…そして思い出すんだ。
もう逃げるのは止めるって決めたからな」
「…辛くはないの?」
安物の指輪を壊れ物でも扱うように大事そうに抱えて、平素の彼女からは想像できない悄気た様子にちょっと可笑しくなってしまう。
でもここで笑っては折角、神妙に聞いてくれている王女の反感を買うことは必至なので我慢するヴァン。
「ん〜…そうだな、辛いな、やっぱり。
けどさ、何て言うかー…逃げて無理矢理に目を逸らしてた時よりは辛くない。
拒絶して、トンズラして、虚勢はってさ。…寂しい寂しいって騒いでる心を押し潰してた時は、余計に忘れられなくて…あー…忘れたいわけじゃないんだけど…えっと、ああもう、上手く言えないなぁ」
どうしてこう、ここぞという時に言葉が不自由になるんだろう俺。
本当に馬鹿だ…アホだ…ううう。
言葉に窮して詰まったヴァンを急かすでもなく、アーシェは待った。
いつもいつも、余計な事ばかり言うヴァンだけれど、なぜか今この時だけは待つに価するだけの価値のある言葉が、きっと聞けるはずだと思ったから。
「つまりー…アレだ。我慢はよくないってことだ。我慢してると考えることが歪んでっちゃう気がする。失透の混じった歪んだ硝子越しに見てるみたいで…、それで慰められた日もあったけど、だけどそれは結局逃げでしか無いんだ。俺はもうそれじゃ満足できない」
彼女が自分の言葉に耳を傾けてくれるのは稀なことなのだ。この機を逃したら、今伝えられなかったら、再び自分と彼女との距離が近まる日が果たして巡ってくるかどうか…。
ヴァンは悩みながら言葉を選んでどうにか自分の気持ちをアーシェに伝えようとした。
「さんざん逃げたし、嘆いたし、だったら後は乗り越えるだけじゃん?
臭い物に蓋して過去は忘れました!じゃ越えるもんも越えられないしー…。変に我慢するより、正直に懐かしんじゃえばいいじゃないかって」
強引な考え方だ。
そんなに人の心は単純明快なものでは無いだろうに。
今度は王女の方が呆気に取られて少年を見ていた。今までに同じような類の慰めはそれこそ腐るほど聞いてきた。その度に「ありがとう」と口にしながら冷めた気分がしていたものだが…。
いっそ明朗快活でさえある彼の物言いは胸が空く。
「アーシェは我慢して我慢して…辛そうに見えるんだよなー…傍から見てて。
それにすっごい寂しそうでさ。いつもその…結婚指輪?見てシュンてしてる。片方はバルフレアに取られちゃって…それが余計に寂しいのかなって」
だから俺のを貸してやろっかなって思っただけなんだ。
バツの悪そうな顔で言うヴァンは、何とか慰めたくてやったものの無神経にアーシェを傷付ける羽目になって反省しているようだった。
叱られた犬のように萎れているのを見ると、王女の心は余計に罪悪感が募る。
「ごめんなさい…。どうか…していたわ。酷いことを言って…」
「ん、いいよ。わかってるから」
へラリ、といつも通り笑ったヴァンの顔を見て、アーシェはホッと息をつく。
徐に彼の目の前で指輪を通して見せて…、そのサイズが見事に合わないのに二人して苦笑してしまった。それもそのはずだ。
新米であったとは言え騎士団員だったレックスに合う指輪がアーシェの細い指に合うはずがない。
「…気持ちだけ受け取っておくわ」
ヴァンに指輪を返して自分のものを嵌めなおす。
憂いを含まずただ静かに見詰めた指輪は、いつもより美しく綺麗に見えた。
「…我慢すると、記憶の中の大事な面影も歪んじゃうんだ。変な形に。
俺、この2年間ずっと何も出来なかった何の力も無い自分が虚しくて、それだけじゃなくて戦って死んだ兄さんに…何か…責められてる気が…して。
そんなはずないのにさ…兄さんはそんなこと望むような奴じゃないのに…」
ハッとして顔を上げ視線をヴァンに向けた。
ヴァンもまたじっとアーシェを見詰めていた。
その目は灰色が勝ちかけていて、少し寂しそうだった。
「でも今は少しずつだけど笑ってる兄さんのことも思い出せるよ。…すごく、胸が痛いけど幸せだよ」
初めて見るような穏やかな笑みに、アーシェは息が詰まるかと思った。
堰を切って溢れた情動のまま目の前の少年の肩に額を押し当てる。
二人で建設した砂山が崩れてスカートを汚すのも構わない。
涙が出たわけではない。でも、この顔を誰にも…彼にも見られたくなかった。
「あ、あの…えっと…ア、アーシェ?」
狼狽して声を上ずらせるヴァンが可笑しくて。
不意に懐かしくなった。
そう、あの人もこんな風に不器用な人だった。こういう時、気の利いた慰めも肩を抱くことも、手を繋ぐことすらも出来なくて。
ただ、ただ、私の名前を読んで…。


『アーシェ、アーシェ……泣かないで…』

大丈夫、泣いてなんかいない。
泣いてなんかいないわ…………ラスラ______...



ぎこちなく肩に回された手は添えるだけで、本当に不器用。
けれど、確かにその腕の温かさに慰められた。
「一緒に行くから。最後まで一緒だから。
ここまでずっと一緒に歩いてきたんだから、一人じゃないから…上手く言えないけど、みんなついてるから平気だよ!なっ!」
どうにかして慰めようと必死な様子に堪らなくなって吹き出す。
くっくっ、と肩を揺らしながらやっと身を離すと、盛大な仏頂面で仄かに赤面したヴァンに睨まれた。ぷーっ、と膨らんだ頬に呆れつつ立ち上がる。
不貞腐れたヴァンに、起して、という風に腕を突き出されてアーシェは目をまん丸にした。
普段、彼に厳しく当る自分に対してヴァンがこのような行動を取ったのは初めてのことだ。
おそらく、これが平素であったならば冷たい目で見て「何のつもり。ちゃんと一人で起きなさい」とでも言っていただろうが…。今は苦笑が込み上げるだけで、嫌な気はしなかった。
…こういう所でだけ機微に聡いのは天性のものね。
両手を取って体重を利用してヨイショと立ち上がらせる。
「ラスラの顔は知っている?」
とっぷりと沈んだ太陽を追いかけて、西へと去っていく薔薇色の光を背に。
そのままバンガローの外に据えてある風呂場へ行くつもりなのだろう、両手に具足と靴を片手に抱えてブラブラさせているヴァン。
二人並んで歩きつつ、不意にアーシェの悪戯っぽい質問にビックリした。
振り返った彼女の顔はやはり若干、曇ってはいるものの…柔和だった。
「えー…その〜…まことに遺憾ながらぁ…」
「知らないのね?…ま、私の顔も知らなかったくらいだし」
「スミマセン…」
「いいわ。返って話し易い……聞いてくれる?」
「おー!聞く聞く!!」
他愛ない話をしながら、ゆったり歩くアーシェの歩調に合わせてバンガローまで歩く。
すでに窓からは明かりが漏れていて、夕食のいい匂いがしていた。
ヴァンは白い煙を空に揺蕩わせるそこをうっとり見詰めて、そんな彼の様子にアーシェは苦笑して……何となく繋いだままの手を見た。
靴の裏に感じる柔らかい砂はもう夜の冷気に冷え切っているだろう。
でも、私の手は凍えない。今も温もりに包まれている。
彼の、暮れなずむ砂浜と同じく優しい温かな掌に手を引かれている自分は、とても照れ臭いけれど…たまにはこんな日もいい。
二人は仲間と温かい夕食の待つ場所へと、並んで歩いて行った。




ブンブンと手を振って呼びかける少年に応じて、バンガローの手摺に背中を預けていたバッシュが苦笑を返す。
ヴァンの隣で仲睦まじく手を繋いでいた王女は近づいて来る男に対して、僅かに気まずそうな表情を浮かべた。
黙って少年の温かい手を離し俯く。
…失望されただろうか。
こんな重要な局面で迷いを感じた弱さを、王家に列なる者として国主となりダルマスカを再興する者として有るまじき紕いを。
敗戦から2年。帝国の侵略の下で逆境に喘ぎながら。
何も喪わない、と。奪われたものを取り返し、帝国と戦うと。今度こそ祖国を誇りを守り抜くのだと。
私は解放軍を結成した時に新たに誓った誓いを、もう…一度破っている。
一番辛い時に支えてくれた忠臣を、自分の弱さ故に失ってしまった。
ハンターズキャンプの中とは言え、賞金稼ぎや冒険者などの荒くれ者も多いここで我侭を言って人払いをしてもらったのは、弱っている自分を仲間にも…何より仕えてくれているバッシュに悟られたくなかったからだ。
失望され、また失うのが恐ろしかった。
結局はヴァンの不器用な慰めを受け入れてしまったアーシェだったけれど。
「アーシェ…?」
急に握っていた手を離されたヴァンは驚いて振り返った。
視線を足元に縫い付けている彼女は、また先刻の岩場で会った時のような硬い表情をしていた。
バッシュはバッシュで4、5歩ほどあいた距離を縮めようともせずに立ち竦んでいるし。…何だか顔も強張ってるし。
妙な雰囲気で黙りこくる二人にソワソワした気持ちになるヴァン。
もしかして自分はお邪魔なんでは…、と思い当たり。
「あ、その、俺ちょっとメシの前に風呂行ってくるから…っ!」
引きつり気味の笑顔でそう言ったかと思うと、ビューンと一目散に風呂場へ駆けて行く。
唖然としてヴァンの背中を見送った二人は、同時にクッと吹きだす。
空気読めない天然素材にここまで気を使わせてしまうとは。
愁眉をひらいて笑う王女の顔に、昼間の翳りが見えなくなっているのを知ってバッシュは内心で安堵の息を吐いた。
生まれて初めての海に歓喜の声を上げ、波に戯れて笑う少年少女を眩しく思いながら、背後で行われる会話を聞くとも無く聞いていた。とても聞き流せる内容ではないものも、確かにあったが…、懐疑するには仲間である彼を知り過ぎていたし。
悲願を達成するためならば、紕うことはない。…紕うことは許されない。
それでも、紕いを知らぬ指導者よりもそれを知ってなお曲がらず拉がれず答えを模索する殿下を心強く思う気持ちのほうが強かった。
…だからこそ容易い慰めを口にするのは憚られた。
「アーシェ様」
いつの間に傍らへ立ったのか。
低い声に名前を呼ばれて見上げてみた男の顔は、いつものように無表情に…ただ嶮しい目元だけが正直な感情を露わにしている。
貴女がとても心配です、と書いてあるようなその目の色に、アーシェは苦笑した。
今、気がついてしまった…。国主としての自分では無く旅の仲間として、守るべき者としてアーシェを按ずる時。決まって彼は「殿下」では無く、懐かしい「アーシェ様」という呼称を使う。
おそらく無意識にやっていることなのだろう。
「ありがとう…」
嬉しかった。
今、この時、「殿下」ではなく「アーシェ様」と呼んでくれて。
常に自分は逆境に在ると思っていた。
今も苦るしみの只中にいると、足掻いても足掻いても光明の見えない闇の中を歩くようだと。
だが違った。何も見えなくても、手を携えて歩いてくれる人がいる。
礼の言葉を差し向けられて、バッシュは戸惑ったようだったけれど、暮れていく夕日に目を細める王女の柔らかな笑みを見て黙って目礼だけを返した。
バンガローへと歩くアーシェの後に続きながら、不意に視線を感じたバッシュは立ち止まった。外設してある風呂場の戸口から遠慮がちにこちらを伺っているヴァンの姿がある。
遠目からだが面白くなさそうな拗ねた雰囲気を醸し出している気がするのは錯覚だろうか。気取られたと知って大慌てで風呂場に飛び込む少年の姿にアーシェも気がついていた。
「…後でたくさん、甘やかしてあげなさい」
言われるまでもなく、貴方はそうするでしょうけどね?
悪戯っぽい笑顔のアーシェにからかわれて、ぐっ、と言葉に詰まったバッシュは困惑して視線を泳がせた後、観念して咳払いし「はい」と、生真面目に頷いた。













end
2011.05.01(再掲)


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