吹き付ける砂嵐を避けて目深に被ったフードの裾をかき寄せる。
容赦なく照りつけ、肌を焦がす太陽の光はすっかり隠れてしまっていたが、熱風に乗って絶えず全身を叩き続ける砂の礫は、火照って敏感になった素肌の頬に容赦なく細かな裂傷を刻んだ。
「作戦として駄目だった気がする」
「漸く気づいてくれたのね」
ボソッと呟いた言葉に穏静だが率直な返事が返される。
先程からやたらと勘に障る物言いの多い道連れを振り返り、アーシェは我慢に我慢を重ねた文句を言ってやろうと口を開いた。途端に熱風に横っ面を張られる。
「ふぐぁ」
羞恥に真っ赤になった顔を背けて、頬張らされた砂の塊をベッ!と吐き捨てた。
俯いた前髪の隙間から覗く鼻の頭が赤く染まり、唇が震えるほど歯を食い縛っている細い頤を見て、フランは溜息を吐いた。少々、大人気なかったか。ツキが無かったのはお互い様なのだ。噤んだまま黙々と先へ進もうとする彼女の手を取り、引き寄せて肩を抱く。
「このまま斜めに進んで。岩陰に」
「私はまだ歩ける…っ」
「風上から近寄って砂塵に身を隠しながら先制攻撃。普通の砂嵐ならばそれが常套でしょうね。いい案だと思うわ」
でも、と肩に回した腕に力を篭める。その直後、二人は全身を見えない鞭で縛られたような圧迫感から互いを庇い合うようにしっかりと腕を組んだ。ウェイトが軽い分、まともに喰らった衝撃を躱わしきれずに仰け反りそうになったアーシェの腰をフランが掴む。
足が動かないことに気がついて下を見ると、踝までがあっという間に砂の中に飲まれていた。
ごごごご、という砂と岩が擦り合わさって腹に響くような轟音がする。ミシミシと何かが軋みながら爆ぜる音に混じって、遠雷が聞こえた。雷など砂の中で鳴る筈が無いのに。今更になって、深刻な状況を悟ったアーシェは知らず知らずフランの手を握り締めた。
予想が当たっていれば、今からこの砂嵐はもっともっと酷くなる。
脳裏に過ぎったのは、記憶の彼方に禍々しい爪痕を残す砂漠の悪魔だ。
砂漠に住む生き物すべてに恐れられている熱砂の悪魔。雨季が近いから、と油断していたが、もしこれがそうならば一刻も早くここから離れなければ。あの風に捕まってしまったら、もう、最後だ。ここからはゆっくりと近付いているように見えても、実際は威力を増しながら凄まじい速さで素ナを巻き上げ接近しているに違いない。
次期に飲み込まれる。
「フラン。急いでビバーク地点まで戻りましょう」
歯の根が合わないほど震えているのが自分でも解かる。
身を寄せ合っているフランにはとうに伝わっているだろう。背中に回された手の力が痛いほどつよくなった。
「無理よ。ここまで来てしまったら引き返す方が危険だわ。ここで凌ぐしか無い」
嶮しい顔でフードの隙間から砂嵐の向こうに目を凝らしたフランは、自分の長身を今ほど有り難く思ったことは無かった。背後から覆い被さる形で緩衝になり、一歩一歩鉛のように重い身体を前進させる。
途中、何度も吹き倒されかけ、逸れるのが怖ろしかったのか、珍しいことにアーシェの方から縋りつく仕草をされた。腕に痛みを感じるほど強く握り締められ、その指先は異様に硬く強張って震えている。
「……ぁ…ッ…」
一度だけ何かを、誰かの名前を呼ぶような悲鳴じみた声が上がった。
フランは眉を寄せて「なに?」と聞き返しそうになったが、口を開くなり飛び込んできた砂を噛んでしまい、それきり後ろを振り向くのは止めた。けして、振り返った先で見たアーシェの顔が一瞬泣き出しそうに歪んだからではない。見てはいけないものを見てしまったようで、ひどく胸が塞いだ。
とにかく、はやくこの場を乗り切らなければ。
やっとの思いで岩陰に身を寄せる頃には、全力疾走し続けた後のような疲労で、無事を確認するどころか息を継ぐのさえ辛い有様だった。
憔悴してその場に蹲るアーシェにつられて自分も腰を下ろしながら、フランは己の判断の迂闊さを思い知って溜息を吐いた。
空の端に黄褐色の薄靄が現れ、徐々に滲むように広がっていった時。すでに砂嵐の様相を呈してきている空合いに気がついていながら、王女の判断に従ったのは少しずつ膨張する砂埃の塊が漏斗雲にも似た小さな塵旋風だったからだ。
この地域でよく見られる形の砂嵐、しかもそれほど大きなものではない。
ならば多少の無理も敵うだろう、と。
「…毒の風」
フランの影に肩を押し付け岩肌に頭を預けていたアーシェが掠れた声を漏らした。とっくに砂は吐き出したはずなのに、ざらざらする咥内に舌が張り付いて気持ちが悪い。ほんの少し顰めただけでも砂に塗れ乾燥した肌には赤い皹が出来る。
「飲むといいわ、酷い声よ」
差し出された水嚢には湯冷まし程度にぬるまった水が揺れている。
最初の一口で咥内を漱いで、もう一口だけ飲み込んだ。フランも一口、飲んで蓋をする。
震えを頑なに隠して身を縮めるアーシェに言葉を重ねることはせず、黙って岩肌に切り取られた小さな空を見上げる。まるでもう岩場ごと砂の中に埋まってしまっているかのように、視界いっぱい黄褐色だった。
「摂氏58度、湿度は10%を切ることもある。塵と砂で動物も人もすべてを飲み込んでしまう熱砂の悪魔。汗も体液も、体中の水分を蒸発させ窒息させてしまう毒の風。シムーン、と言うのよ。
私、ここにこの風が吹くことを知っていた。痛恨だわ。何で忘れてたのかしら」
独白より小さな呟きは風の音に紛れて届かなかったのか、自嘲に対してフランからは何の反応も返ってこなかった。
本当は忘れていたんじゃ無い、思い出すことを禁じていただけだ。
鮮明に思い出すことが出来る。あの凄惨で、なのにどこか清潔で静かな光景を。
眠るように閉ざした瞼、砂に沈んだ白い身体。
引き上げようと掴んだ手が、ゴトリと途中からもげて落ちた。
初めて間近に見る死体だったと言うのに、血の一滴すら零れず乾いているそれを、悲鳴も上げずにただ呆然と見つめていた。狼狽したのは後ろから追ってきたウォースラだ。掴んだそれをぶら下げて呆けている私の手を取って、強張って動かない指を一本一本ほぐして、けれど間に合わなくてとうとう私が掴んていた白い手は手首から下が外れて落ちてしまった。
転々と砂の海に埋もれ、転がったまま奇妙な格好で突き出ている何本もの腕。砂嵐の晴れた、蒼穹の空に向かって伸びた白い掌を追って上げた視線の先に、こちらへと迫る飛空艇艦隊の歪な陰を見た。
もう熱さも痛みも鈍くしか感じられない痺れた頭で、赤と黒の旗艦の下、ただひたすらに「生き伸びなければ」とそれだけを。同胞の骸の下に身を隠して、目の奥がジンとして鼻が湿気った気がしたがとうとう涙は出てくれなかった。悲鳴を上げて泣き叫びたい衝動は、熱い熱い風と砂に攫われてどこかへ消えてしまった。
阿呆のように何も感じない自分が可笑しくて、堪えきれずに小さく笑うと、触れるか触れないかのところで私の背中を抱いていたウォースラに、後ろから頭を抱え込まれた。息が詰まって苦しいほど。抱き締められた肩が軋んで痛いくらいに。
おゆるしください。
喉の奥で潰された慙愧の声。
私に赦しを求めたのか、それとも死なせてしまった騎士達に許しを求めたのか。糺すことはしなかった。彼のああした姿を見たのは、後にも先にもあの時だけだった。
彼ほどの武人にこんな屈辱を強いてまで生きる価値が私にあるのか。
口が裂けても言ってはならない言葉を砂と一緒に飲み込んで、私の虚しさと憤怒とを挫けそうな心ごと抱き潰してくれる私の騎士の、微かに震える太い腕を抱き返した。
「そろそろ返してもらっても?」
「え…?」
物思いから浮上したアーシェは、咄嗟に何を言われたのか解からず無防備に顔を上げた。膝を突き合わすほど近くに座っているのだから当たり前だが、少し伸び上がっただけで頬に頬が触れる距離だ。うろたえて俯き、己の手がギュッとフランの手を握り締めて放さないでいたのを知って、慌てて手を放した。
あんな酷い砂嵐の中に居たのに傷一つ無い褐色の肌を少しばかり羨んでいると、その手が顔に伸びてくる。長い爪が真っ赤に火照った頬に触れ、そこからピリピリと小さな痛みを感じる。
「な、なに…」
両手で頬を挟まれて上を向かされる。
そこにはよく見かける表情があった。目を眇めて僅かに唇の端が弧を描く。彼が少年をからかう時、他愛ない些細な諍いを愉しむ時に見せるあの顔だ。ここには居ないお下げ髪の少女曰く「フランってたまにバルフレアさんと似てる。あ、でもフランの方がちょっとだけ男前かも」と言う現象を目の当たりにして慄いた。
これは想像以上の有り得なさだ。
なんで貴女がそんな顔するのTPOが違うでしょう相手が違うでしょうて言うか…っ、
「貴女、私のこと嫌いでしょう!?」
「ケアル」
普段なら温かいと感じるはずの魔法は、茹だった肌には涼しかった。添えられた掌と同じくらい、ひんやりと柔らかな風が染み透って、赤く細かな裂傷を作っていた頬も手の甲も癒され元通りになる。
勢いで言ってしまったとは言え、とんでもない失言だった。空回りした上に空気の読めない物言いだった、と猛省して小声で「有難う」と礼を言う。だが、なんだか引っ掛けられた気もしないでもなくて「自分の怪我くらい自分で治せたわ!」と文句をつけるのは忘れなかった。
「本当にヒュムは不可解ね。弱いんだか強いんだか」
「私にはヴィエラの方が理解し難いわよ」
半ば愚痴を零すように言って、膝を抱え込む。
こうするとフランとアーシェとの間にはほんの少しだが距離が生まれる。岩陰の狭窄に無理矢理二人で挟まっているわけだから、距離と言ってもたかが知れているが。それでも頬が触れ合うほど近くで、あの赤みがかった榛色の瞳に見下げられているよりは精神的な開放感がある。
彼女に威圧の意思が無いことはわかっている。が、要はこちらの気分の問題だ。正直、アーシェはフランが苦手だ。鉄面皮と言っていいほどに感情の起伏の乏しい真率な眼差しに見下げられていると、何もかも白日に晒されるようで。自制心で雁字搦めに縛った奥底から、自分でも自覚していないような何かを引き摺り出される気がして。
視線を避けて外の様子に目を向ける素振りをする。
普段ならそれで外れてくれるはずの彼女の目が、静かに旋毛の辺りに定まったままなのを感じて、居た堪れなさに勝手に言葉が口を突いて出ていた。
「…理解、できない。身体的な能力でも精神の熟達に於いても、優れているのにどうして求めないのか。森に塞ぎ込んで引き篭もって、宝の持ち腐れもいいところね。老成していると言うより枯れてるわよ。向上心の欠片も見えないもの」
フランはなにやら暗い顔つきで沈思黙考しているアーシェの気を逸らそうと、ついパンネロと楽しむ会話の気安さで軽口に誘ってみたつもりだった。
それはどうやら要らぬお節介だったらしい。フランが常に無い行動を取ったためか、不意を突かれて取り乱している。
「向上心とは便利な言葉ね。人間の欲深さを肯定してくれる」
彼女の子供じみた意趣返しに興味を引かれてフランがそう返すと、アーシェは皮肉を言われたと思ったのか、外へ逃がしていた視線を戻してこちらを睨んだ。
まるで手負いの獣のようだ。
傷を隠す為に態と歯を剥き出しに威嚇して、己を鼓舞することに必死な。
「貴方達は求め続ける欲深い種族だわ。傷つきやすくて脆くても、それを補う為に周りの環境を思い通りに変化させるくらい、生きることに貪欲」
だから好きよ。
私は同族のヒュムかぶれを一概に落魄と罵ることができなかった。
里を出るという選択肢があるのだと気づいた時、この胸に芽吹いたのは好奇心と言う名の「欲求」だった。
まるでこちらに向けて「好き」だと語りかけるふうな言い回しをされ、アーシェの肩に力が入る。そんな錯覚を覚える自分自身も気持ち悪ければ、いずれにも偏らない中立的な立場を取るはずのフランが初めてヒュムの性質を肯定する発言をしたことも気持ち悪い。
「だから私は貴女のこと、嫌いじゃ無い」
「…それはどうも」
その「だから」とはどういう意味か。
我侭を言って勝手に作戦を実行したことを皮肉られているのか。
それとも、何も捨てたくない奪われたくない奪い返したい全て腕の中に…と臨みながら一方では矜持も誇りも義務も全て投げ捨てて、放埓と言う名の自由を手に入れたがっている惰弱で欲張りな裸の心を悟られたのか。
それきり途絶えた会話にどちらも接ぎ穂はつけなかった。
再び静かに目を伏せて思考するアーシェを見下げる。
想いの先にあるのは、過去か未来か。
抑制し続ける心の奥底で、今は誰の名前を呼んでいるのだろうか。
その名が死者のもので無ければいい。
遠くで雷の落ちる音に似た轟音がして、フランは身を竦ませたアーシェの腕を引き寄せた。膝があたってグッと近くなった距離、銀の髪からパラパラと落ちる砂が抱いた肩を弾いて落ちていく。
嵐はまだ、止まない。














end.
2011.11.04


inserted by FC2 system